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ビーグル号(ボーフォートからフィッツロイへの覚え書き:冒頭部) [ビーグル号]



このブログの"ダーウィンが行く"のシリーズでダーウィンの日記を原則としてその日付ごとに読んでいってます。ダーウィンは1832年3月7日から11日まではヒザの負傷による静養のため日記を書いていません。
そこで、この機会に、この航海におけるこの時期にはビーグル号では本来の仕事として何をしていたのかということを見る参考のために、ビーグル号のフィッツロイ艦長が、ダーウィンの乗ったこの第2次航海に出発するにあたって、命令に付随して受け取った海軍本部・水路部のボーフォートからの覚え書きの関連部分を読んでみたいと思います。 以下の通りです..

[ボーフォートからフィッツロイへの覚え書き(抄録)]

「覚え書き

「リオ・デ・ジャネイロの経度についてのかなりの相違が、キング、ビーチー、およびキャプテン・フォスターの測量と、キャプテン・W.F.オーウェン、ルサン男爵およびポルトガル人天文学者によるそれとのあいだに、存在している。南アメリカの経度を我々はそれ[リオの経度]から測るのであるから、これらの相異なる権威ある数値に決着をつける事は重要事なのである。これまで、公的私的を問わず、ビーグル号より良い一組のクロノメーターを積んでこの国[英国]から出た船はない。それで、もしその航海が、継続的な気温の上昇によりすべてのクロノメーターに起きる変化を見るために、短い各段階を経て行われるならば、それはその差異を将来において実質上の問題が起きないほど小さくする事に役立つであろう。

「この観点から、リオ・デ・ジャネイロへの進行は便宜的に4つの部分に分けられるであろう:

「第一。マデイラに寄港すること。その精確な位置はどの[測量]隊によっても認められている。その地[マデイラ]で、またはもし天候や錨地の問題があればテネリフェで、4日ごとの[クロノメーターの]歩度を調べたら、ビーグル号は

第二に、可能な限りの最小の遅れをもってベルデ岬諸島のプラヤ港へ進むべきである。そこで単に新たに4日ごとの歩度を得るだけでなく、そこはキャプテン・オーウェンのすべての経度数値がかかる基軸の地点なのでそのために彼が採った場所を確認する事に労を惜しんではならない。 それから

「第三に、最良の経路で赤道を越えてフェルナンド・ノロニャに進むべきである。その島は、実は、その[ビーグル号の]進路より若干西寄りにあり、その進行を少し妨げる事になるかもしれないが、そこでの一連のクロノメーターの観測は当面の目的にとっては本質的である。というのはそこは[リオまでの]全行程の約1/3にあたり、またフォスター海尉艦長の経度折り返しの接合点だからである。もしこれらふたつの観測地のどちらかにおける2、3日の遅れが、この土地で見られと思われる月食および月の正中の十分な観測を可能にするなら、結果の正確性の増大はその時間の損失をよく償うことであろう。海尉艦長[フィッツロイ艦長のこと]はそれら観測地において、比較のため先人の観測地点の正確な位置を選ぶよう注意深くすることであろう。フェルナンド・ノロニャの知事は特に海尉艦長フォスターに便宜を図っており、彼の家屋の一部を振り子の実験のために提供したことがある。今度は彼の親切にそれほど頼ることはないだろうが、その[フォスターの観測]地点とフィッツロイ海尉艦長の[地点の]経度の相違はよく測られるべきである。

「ビーグル号がリオ・デ・ジャネイロに出来るだけ早く到着することは望ましい事ではあるのだが、アブロリョス堆の真の位置を知る事には大きな重要性があり、また確実にそれはルサン男爵が記した境界よりはるか遠くに広がっているのであるから、西経36度周辺を南緯16度から探ってみる為に他の事情が許すなら、若干日数をそれに割くことは正当化されるであろう。移動中深く測深線を保持してもし海底にあたったなら、堆はふたとおりの方法で探求されるべきである。その縁へ向かってと、既に知られている部分へ向かってとである。

「その東向きの実際の規模と、浅瀬との関連性がかくて確認出来たなら、そのさらなる探求はよりふさわしい機会のために残されるであろう。

「リオ・デ・ジャネイロでは、水の補給、等々に必要な時間を、海尉艦長[フィッツロイ]はビレガニョン島の経度を決定するのに役立つあらゆる観測に使用するであろう。

[以下省略]
........
........

F.ボーフォート
水路測量部 1831年11月11日.


[参考地図] フィッツロイ艦長の記録したビーグル号の測量によるリオ・デ・ジャネイロのビレガニョン島の緯度・経度の数値を現在の座標系に表示した位置が矢印の所。経度にして東に1海里未満(0.7海里程)の乖離。なお、ボーフォートの覚え書きの冒頭に書いてあるビーグル号による測量以前の、大別して2系統に分かれるリオの経度数値間には、互いに数海里の乖離があったそうです。

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ビレガニョン島は上の地図のデフォルトの縮尺・中心のままですと地図左側に一部形の見える小島です。
[注]小さい島の位置情報の方が後の人の確認作業にとって都合が良いわけです。

[参考画像] 下のGoogle Earth 上に示された2点は 1)サルバドール(バイア)にある "フォルテ・サン・ペドロ([英]Fort San Pedro)" という地名の地点、および 2)フィッツロイ艦長のビーグル号によって測量された"フォルテ・サン・ペドロ(Fort San Pedro)"の緯度・経度を現在の座標面上の位置を示すものと見なしてプロットした地点、のふたつです。ビーグル号による測量によって得られた値を現在の測地系(WGS84)による地図上に表したものは0.47海里(0.88km)ほど東微南に寄っています。なお、測地系の相違によって緯度経度が異なるのは、精度の問題がもちろんありますが、定義により当然の事というかやむを得ない事でもあり、たとえば世界測地系[WGS84]で表したものと旧日本測地系で表したものでは日本国内において0.5kmほどのずれがあります。つまりGPSによる緯度・経度表示でも測地系による数値の相違があるというわけです..
salvador.jpg
WGS84による緯度経度: 南緯12度59度14.87秒, 西経38度31分13.47秒
ビーグル号による緯度経度: 南緯12度59度20.00秒, 西経38度30分45.00秒


[覚え書き原文(抄録)]
"Memorandum.

"A considerable difference still exists in the longitude of Rio de Janeiro, as determined by Captains King, Beechey, and Foster, on the one hand, and Captain W. F. Owen, Baron Roussin, and the Portuguese astronomers, on the other; and as all our meridian distances in South America are measured from thence, it becomes a matter of importance to decide between these conflicting authorities. Few vessels will have ever left this country with a better set of chronometers, both public and private, than the Beagle; and if her voyage be made in short stages, in order to detect the changes which take place in all chronometers during a continuous increase of temperature, it will probably enable us to reduce that difference within limits too small to be of much import in our future conclusions.

"With this view, the run to Rio de Janeiro may be conveniently divided into four parts:—

"1st. Touching at Madeira, the exact position of which has been admitted by all parties. Having obtained a four days' rate there, or, if the weather and the exposed anchorage will not permit, at Teneriffe, the Beagle should, 2dly, proceed with the least possible delay to Port Praya, in the Cape de Verde Islands, not only to establish a fresh four days' rate; but that point being the pivot on which all Captain Owen's longitudes turn, no pains should be spared in verifying the position he has assumed for it. From thence, 3dly, she should make the best of her way across the Line to Fernando Noronha. This island, indeed, lies somewhat to the westward of her track, and may retard her progress a little; yet a series of chronometric observations there is essential to the object in view, because it forms the third nearly equal division of the whole run, and because it was the point of junction of Commander Foster's double line of longitudes. If two or three days' delay at either of these two last stations will enable him to obtain satisfactory occultations, and moon culminating observations, which are likely to be seen in this country, the increased certainty of the results will well atone for that loss of time. The Commander will, of course, be careful to adopt, in all those stations, the precise spot of the former observations, with which his are to be compared. The Governor of Fernando Noronha was peculiarly obliging to Commander Foster, and gave up part of his own house for the pendulum experiments. There will be no occasion now for trespassing so heavily on his kindness; but the difference of longitude between that station and Commander Fitz-Roy's must be well measured.

"However desirable it may be that the Beagle should reach Rio de Janeiro as soon as possible, yet the great importance of knowing the true position of the Abrolhos Banks, and the certainty that they extend much further out than the limits assigned to them by Baron Roussin, will warrant the sacrifice of a few days, if other circumstances should enable her to beat down about the meridian of 36° W. from the latitude of 16° S. The deep sea-line should be kept in motion; and if soundings be obtained, the bank should be pursued both ways, out to the edge, and in to that part already known.

"Its actual extent to the eastward, and its connection with the shoals being thus ascertained, its further investigation may be left to more convenient opportunities.

"At Rio de Janeiro, the time necessary for watering, &c. will, no doubt, be employed by the commander in every species of observation that can assist in deciding the longitude of Villegagnon Island.


[omitted]
......

......


F. BEAUFORT."

"Hydrographical Office, 11th November 1831."

出典: FitzRoy, R. 1839. Narrative of the surveying voyages of His Majesty's Ships Adventure and Beagle between the years 1826 and 1836, describing their examination of the southern shores of South America, and the Beagle's circumnavigation of the globe. Proceedings of the second expedition, 1831-36, under the command of Captain Robert Fitz-Roy, R.N. London: Henry Colburn.





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ガラパゴス諸島でダーウィンは..(余談) [ビーグル号]

ハレー彗星を見たらしい

今回も余話です。
長楕円の軌道を持って周期的に太陽の近くに帰ってくる彗星の中でも、極めて有名な彗星のひとつにハレー彗星があります。 これはエドモンド・ハレーという人が、過去の1531年、1607年、そして1682年に現れた彗星が実は同一で、次に1758年頃にまた出現するということを計算によって予見したということで有名です。(注: ハレー彗星はイギリス史において画期的なノルマンによる征服の年1066年に現れた彗星でもあるということがわかっています。)
この1758年末から1759年はじめにかけてのほぼ予告どおりの出現によって大きな注目を集めたハレー彗星、その次の出現はあまり大きな話題となる事もなかったようです。ところがその出現というのが1835年後半だったんですね。地球にもっとも近づいたのは10月13日で、太陽にもっとも近づいたのが11月16日だったようです。

このとき、具体的には1835年10月8日から17日まで、ダーウィンはガラパゴス諸島のジェームズ島(現サンサルバドール島)にいました。ビーグル号は別の所に測量や補給に行っていて、ダーウィンの一隊は島での水場が海水に没して飲み水がなくなってしまい、アメリカの捕鯨船に助けてもらったりしていた時です。(その捕鯨船の方は島で行方不明になった乗員をさがしていたとのこと。)

どうやらダーウィンはこの間の14日に彗星を見たようです。彼のフィールドノート(日記とは異なるノート)の14日付けのところの末尾に
"Comet(彗星)"
と単語だけを書いてあるんです。

彗星についてそれ以上の記述はありません。またその後17日まではフィールドノートには記入がありません。"日記"や"航海記"にもそれ以外の著述にも、このハレー彗星を見た事については何も書いてありません。フィッツロイ艦長の書いたもので今読めるものにもハレー彗星についての記述は見当たりません。
推測になりますが、このハレー彗星についての観測をビーグル号で行っていないのは、本来の任務であるガラパゴス諸島の測量の方が忙しかったためであると考えられます。出発に当たって海軍本部のボーフォートからフィッツロイ艦長に与えられたメモには、航海中予定に差し支えない限りにおいて興味深い天文事象を観察する事、そして港にいる場合の彗星発見時の観測について言及があります。ですから、これがもしどこかの港に入っているような場合でしたらかなりきちんとした観測をしたはずです。 航海のための天測以外の船を使っての天体観測というのも、キャプテン・クックの航海のもともとの発端が金星の太陽面通過をタヒチ島で観測するためだったことを思い起こせば不思議な事ではありません。

注1: もっともビーグル号の行っていた島の方は当時あまり天気も良くなかったようです。それからダーウィンがフィールドノートをしばらく書かなかったのは観察よりも標本の採集の方で忙しかったためと考えられます。
注2: 次の彗星年表によりますと(↓)、
http://cfa-www.harvard.edu/icq/bortle.html
この時のハレー彗星は"COMET 1P/1835 P1"として観測されていて、ダーウィンがノートに「彗星」と書き込んだ1835年10月14日にはうしかい座の最北部にあって、光度は1等星程度で尾の角度20度、宵の空に見えたようです。うしかい座ということは、赤道直下でも見える事は見えますが、北に行くほど見やすかったかと思われるので、ダーウィンやビーグル号上から見えたとしてもそれほど空高い位置ではなかったのであまり印象は強くなかったかもしれません。

(ガラパゴス諸島付近1835年10月14日日没直前の空の様子の模型..紫色で印を付けた所が うしかい座 の北部)

その後の記述がないとは言ってもダーウィンがガラパゴス諸島のジェームズ島で彗星を見た事は上述のノートによってほぼ間違いないと思われます。時期を見ればこれはハレー彗星だと考えられるわけです。 おそらく、10月20日からのガラパゴス諸島からタヒチ島に向っての太平洋の横断の間少なくともはじめのうちは、宵に1~2等級程度の(注:それほど明るいというわけではないですが)ハレー彗星が洋上で前方右舷側に見えていたのではないでしょうか。

その1835年接近時のハレー彗星は日本でも見えたようで、おそらくその時のハレー彗星を描いたと考えられる九谷焼の皿があるそうです(↓)。
http://www.kobe-np.co.jp/kobenews//sougou/011004ke24990.html
(神戸新聞 2001年10月4日の記事)

その九谷焼の窯のある加賀藩の金沢では柴野優次郎という人がこの彗星を見ていて、
"八月廿三日微雲中、光芒嵩如"
と書いているとのことです。
http://www.geocities.jp/whhxj855/kanazawa.htm
この八月廿三日という日付はグレゴリオ暦ではダーウィンがフィールドノートに"彗星"と書き込んだ10月14日にあたります。ただし見たのは日本の時刻での夕方ですが、ダーウィンのいた位置(赤道上西経90度)の時刻より半日(12時間)+3時間ほど早い時刻となります。


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ビーグル号余話 [ビーグル号]

ビーグル号余話

フィッツロイ艦長の指揮のもとにほぼ5年間の年月をかけて各地の測量をしながら世界周航を行ったビーグル号(HMS Beagle)ですが、その航海ではダーウィン(Charles Darwin)が博物学者および艦長の話し相手として乗って、それが後に"自然選択による種の起原"の理論を生み出すための重要な契機となりました。このブログのはじめのほうで、そのダーウィンの"ビーグル号日記"というのを読んできました。

そのビーグル号について次のようなうわさ話が一時期流布しておりました。つまり、ビーグル号は後に売られて日本の薩摩藩の"乾行(けんこう)"という艦となったというものです。この話は岩波文庫の"ビーグル号航海記"の訳書にも訳者による説明のなかに一説として載っていますのでご存知の方も多いかと思います。

しかし、これは"HMS Beagle"という名前の船が歴史上複数存在したということによる混同なんですね。イギリスでは艦名を別の艦に受け継ぐ風習があるようで、例えば試みに昔の帆船の名前でネット上で画像検索をしてみると当面こちらには用もない原子力潜水艦の画像が出て来たりします。

このブログの先の方でダーウィンの乗ったビーグル号という船そのものについてとりあげたことがありました。
http://blog.so-net.ne.jp/kozuchi/2007-03-11
そこで参照文献として掲げた
Keith Stewart Thomson, "HMS Beagle", W.W.Norton, 1995, New York/London
という本の付録Bによれば、ビーグル号(HMS Beagle)という名前の船が歴史的には少なくとも9隻存在していたとのことです。

それによれば、
1) 1766年頃建造のボンベイ海兵隊(当時の呼び名)の艦、
2) 1808年建造で、ナポレオン戦争で功があり、"ゴールデンビーグル"とニックネームの付いた艦、383トン、
3) ダーウィンの乗った、かの有名なビーグル号で1820年建造、1870年売却
4) 1854年進水のスクリュー駆動の蒸気船(477トン)、クリミア戦争で働き、1863年に香港で売却、後に(1865年)薩摩藩の"乾行(けんこう)"となる、..

といったものがあるようなんですね。(5隻目以降は省略します。)
この4隻目の HMS Beagle、薩摩藩購入の"乾行"ですが、私自身が使える資料がないので詳しく書けませんが、これは後に明治政府に献納されて練習艦になったとも言われています。
注:ネット上ではいくつか"乾行"について書いているページもありますが、信頼出来る資料によって自分で確認がとれるわけではないのでネットからの孫引きはしないでおきます。

ひとつ言える事は、"乾行"という命名はとても素晴らしい名付け方であるという事です。当時の武家の基本的文化であった儒教における五経のひとつである易経のなかの説卦伝によれば、"乾健也(けんはすこやかなり)..乾爲馬(けんはうまたり)..乾爲首(けんはかしらたり)..乾天也(けんはてんなり)"というようになっていて、'乾'という語はとても良いものの代表格にあげられるわけですね。"乾坤一擲(けんこんいってき)"という成語に使われる時の'乾'すなわち"天"を意味するわけです。また"乾行"は"健行(すこやかにゆく)"に通じますね。これは単なる語呂合わせではなく、裏付けがあるわけです。いずれにしてもこの命名、背景の文化が香ります。 もっとも、名前のわりには艦としての"乾行"はあまり実際の働きはなかったようですが。

ダーウィンの乗ったビーグル号の方はすでに上であげた私のブログ記事に書いてありますが、300トンに満たない小さな船体でいくつもの大洋を渡った3度の航海を1843年に終えてからは、沿岸警備隊の(マストを外した)固定監視船となり、1863年にはWV7(Watch Vessel 7)と改名され、そして1870年には(おそらくスクラップ会社に)売却されています。
いまでもダーウィンの乗ったビーグル号の木材が一部見える場所があるとの噂もありますが、噂というのはとかく混乱のもとですので、この場合も確認がとれるまでは信じない方が良いようです。


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ダーウィンのビーグル号日記(航海の感想) [ビーグル号]

ダーウィンによる航海の感想

ダーウィンは、ほぼ5年におよぶビーグル号での航海の最終過程、アゾレス諸島から英国までの船中で、日記に回想と感想を書き付けています。この部分はダーウィンの自分自身のためだけの記録というよりはあるいは後に誰かに助言を与える機会を考えての覚え書きだったかもしれません。

長い航海による損失としてダーウィンは次のような事柄をあげています:
1) 友人との交わり(の欠如)、
2) 親しい場所の眺め(の欠如)、
3) 不足しがちな居室、隔離、休息、
4) 絶えまない急忙の感覚(というマイナス面)、
5) 家庭的社交の欠如、
6) 音楽その他の空想の快楽の欠乏、
7) 船酔い(というマイナス面)..

こういったことに加えて、さらにダーウィンは、
"誇らかに称えられた涯のない大洋の壮観は何であるのか。それはものわずらわしい荒野、アラビア人のいう水の砂漠である"
として大洋の取っ付きの悪さを述べています。

これに対しダーウィンはまず、1)や2)の損失に関しては、いつか帰還するときにそれを回復することを予想することがまた実は楽しみなので一部は癒されるとしています。3)から6)については"些事"だとダーウィンは位置づけます。それに、ダーウィンの時代にはもう船旅は大きな欠乏にあうことなく実行出来るようになっていました。船の資材の改良があっただけでなく、アメリカ大陸の西海岸は当時はもういくつか港が出来て開放されていました。オーストラリアは擡頭しつつある大陸となっていました。このことによる補給の便宜はキャプテン・クックの時代とは大違いになっていました。
船酔いしやすいダーウィンは、7)の船酔いについては、それは"1週間で癒せる些細な災厄ではない"として重大視しています。そうではあるけれども、楽しい場面を次のように挙げます..

"晴れた空と、きらめく暗い海と、徐ろに吹く貿易風の軟かな空気をはらんだ白帆との月光の夜、鏡のように磨かれて、もり上がる海面と、おりおり帆布のはためきの他にはすべて静寂の凪、驟雨がアーチのような雲をふり上げて、怒って馳せてくるところと、あるいははげしい疾風と、山のような浪とは、一度は見る価値がある。"

しかしまた、恐怖を感ずることも多かったようです。
"しかし私の想像は、完全に大きくなった暴風のうちに、それよりも壮大なおそるべきものを心に描いていたことを自白する。..海上ではぐんかんちょうと、小さなうみつばめとが、嵐をその本来の領域であるかのように翔び、海はその日常の仕事を遂行するように昇り、また沈み、船のみが乗組員とともに、憤りの対象物となっている。"

まあ、300トンに満たない帆船で、いくつも大洋を横断して来たわけですから、この感想は簡潔ですが、実景を与えてくれるように思います。

さて、ダーウィンの風光についての感想ですが、まず、

"絵のようなヨーロッパの美しさは私の見たところのものよりたぶんかなり勝れているだろう"

と書くのですが、これは一刻も早く故郷に着きたいと思う帰途の船の中で書かれたものであることを考慮しても、後に"航海記"でもこの形で発表していることを考えれば、十分ダーウィンの変わらぬ本心を表しているだろうと思われます。実際彼はこの航海中色々な所で山や丘に登りましたが、その際随所でウェールズの光景を思い出しています。

ところが一方で、

"私がヨーロッパの諸部の風光がおそらくわれわれが見たところのものより勝れているといったばあいは、私は熱帯圏内のものを独特の階級として、これを除外している。この2つの階級は、これを一しょにして比較してはならない。"

熱帯圏の風光についてはフンボルトの本を読んで強い影響を受けたダーウィンはかなり強い期待を持っていたようです。実際にブラジルで見た熱帯林は期待を裏切らなかったわけです。そのことについてはブラジルで書かれた彼の日記部分を読めば一目瞭然です。
さて、

"私の心に深く印象を与えた風景のうちで、「生」の力が支配しているブラジルの森林にしても、「死」と「腐朽」とがあまねく存するティエラ・デル・フエゴにしても、荘厳の点では人間の手に損なわれていない原生林に勝るものはなかった。両者はいずれも「自然の神」の多種多様な生産物で満たされた殿堂である。

"過去の像を呼びおこせば、パタゴニアの平原が、しばしば眼の前にうかんでくる。.. 何故にこの乾燥した荒野が私の記憶の中にこれほどもしっかりとした足場を得たのであろうか。..私にはこの感情の分析ができそうもない。しかしその一部は空想に与えられた自由の領域によるものでなければならない。パタゴニアの平原は限界がない。それは通過もほとんどできないからである。従って、未知のものである。それは今あるがままに、幾多の時代に亘って残存した刻印を担っている。また将来の時間を通して、その耐久には限りないもののように見うけられる。もし古人が想像したように、平坦な大地が、越えがたい広さの水によって、あるいは堪えかねるまで過熱された沙漠によって囲まれたものとしたなら、誰か名状しがたい深い感動をもって、この人間の知識の最後の限界をみつめないものがあろうか"

"高く聳えた山々からの眺めは、ある意味からいえば、確かに美しいとはいえなくても、いちじるしく記憶に値するものである。最も高いコルディエラ(注:アンデス山脈)の峠から見下ろしたとき、心は繊細な細部によって妨げられず、周囲の気も遠くなるほどの大きさの集塊によって堪能した。"

また、先住民との出会いからも強い印象を受けました。

"心は急速に過去の幾多の世紀を馳せもどって、それからわれわれの祖先も、かかる人類であったかと疑問を生ずる。"

これはおそらくティエラ・デル・フエゴでフエゴ人達(ヤマナ族)を見た時のことだろうと思われます。

注:航海を終えてから40年ほども経過した1876年にダーウィンは家族用に"自伝"を書きますが、そこでも次のように印象を書いています:
"熱帯の植生の壮観は今(注:自伝を書いた時点)でも何にも増していきいきと心の中に蘇ってくる。他方、パタゴニアの巨大な沙漠やティエラ・デル・フェゴの森林に覆われた山々によって内心に呼びおこされた荘厳の感覚というものは私の心に消す事の出来ない印象を与えている。その郷土における裸体の未開人の姿を見た事も決して忘れられない出来事である。("自伝"p.80)

"日記"にはさらに次のように印象に残った事物を挙げています:
"この次にわれわれの見た極めて著しい観物のうちには、次のものを挙げたい。南十字星、マジェランの雲、その他の南半球の星座 - 竜巻き - 青い氷の流れを導いて、そばだつ断崖で海に懸かる氷河 - 岩礁をつくるさんご虫によって持ち上げられた礁湖島 - 活動する火山 - 兇暴な地震の圧倒的な効果。後の方の現象はこの世界の地質構造に密接な連絡があるため、おそらく私に特殊な興味を持たせたものである。ともあれ、地震はあらゆる人々に最も印象の深い事件であったに相違ない。われわれは極めて幼い少年時代から、動かないことの手本と考えられていた大地が、薄皮のように、脚下で動揺した。そして人間の労力の成果が一瞬にして倒潰するのを見ては、人間の誇とする力の無価値が感ぜられる。"("日記"および"航海記")

まとめ..
"私はこの航海を深く享受したので、私の場合ほど同伴者に恵まれることは期待できないとしても、あらゆる機会を利用するように、またできたなら陸路の旅に、然らずば長途の航海に発足するようにと、どんな博物学者に対しても奨めないではいられない。彼は稀なばあいを除いて、予め心配した最悪に近い困難にも、危険にも遭うことはないと、保証されるであろう。道徳の見地からは、この旅行の効果は、快活な忍耐心を養わせ、我儘を去り、みずから進んで事をなす習慣と、あらゆる出来事に全力をつくすことをおしえるにちがいない。つまり、彼は一般の船乗りの特徴とする性質を分担すべきである。旅行はまた、軽々しく人を信ずべからざる事を教えるにちがいない。しかしそれと同時に、曾て何の交渉もなく、また将来も決して交渉があるまいと思われるにもかかわらず、甚しく損得を度外視した助力を、いつでも提供しようとする、ほんとうに親切な人々が、いかに多くいるかを発見するであろう。"("日記"および"航海記")

ダーウィンは英国に帰ってから、南米大陸で収集して別の船で英国に送っていた標本や、太平洋からインド洋そして大西洋を越えて持ち帰った標本、という資料の整理をし、他の専門家をも交えて"ビーグル号航海の動物学"という出版物の編集(1838~1839年)をしたり、フィッツロイ艦長の編集する報告書の一環として"ビーグル号航海記"(1839年)を書くという形で航海の整理を行います。"航海記"は後に(1845年)改訂され独立して出版されます。その間1842年にはサンゴ礁についての論文を書いてもいます。

この後のダーウィンの著述活動が極めて重要なものとなるのは周知の所です。いずれ機会を見つけて書いてみたいと思います。


タグ:まとめ
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C.ダーウィンによるサンゴ礁成り立ちの説明 [ビーグル号]

ダーウィンの考えたサンゴ礁生成の理論

C.ダーウィンはビーグル号(H.M.S. Beagle)に乗っている間、太平洋横断に際していくつかのサンゴ礁を通り過ぎています。さらに、その後インド洋において、ココス諸島(キーリング諸島)にビーグル号が停泊していた時、サンゴ礁というものをつぶさに観察し、ライエルの"地質学原理"を読みながらかねがね考えていたサンゴ礁の成因についての自らの理論を確認し、後に英国に帰ってから発表しました。これは今日ではサンゴ礁生成についての古典的文献となっていて、今でも基本的には正しい理論とされています。
注: C.ダーウィンの"自伝"によれば、南米大陸西岸で侵蝕と堆積、土地の隆起と沈降について考えている間に、その一環としてサンゴ礁成因についての理論はすでに考えついていたとのことです。

サンゴ礁とは、固い骨格を発達させるサンゴ虫のなかでも礁を作り群生する造礁サンゴというタイプの小さな動物たちによって造られる、主に石灰岩の層からなる岩礁です。暖かい海の造礁サンゴは日当りのよい高水温のきれいな、塩分の薄くならない海水の浅瀬で活躍出来るようです。

熱帯圏(一部亜熱帯)の暖かい海のさんご礁は海の熱帯林とも言われる豊かな生態系を持ち、地球上での魅力的な場所でもあります。礁湖といわれる極めて穏やかな部分とそれをとりまく荒々しい外洋との対比は、ある種本能的に響くような感動を与えてくれます。

ダーウィンの場合、もとからの博物学的興味だけではなく、実際にココス諸島での滞在でサンゴ礁に魅せられたということは事実のようです。博物学者として、もともとサンゴ礁の成因には関心を持っていたのだろうと思われるのですが、イギリスで論文を書くにあたってはやはりココス諸島でのサンゴ礁体験が重要な契機だったのでしょう。
ダーウィンの文献とは:
Darwin, C. R. 1842. The structure and distribution of coral reefs. Being the first part of the geology of the voyage of the Beagle, under the command of Capt. Fitzroy, R.N. during the years 1832 to 1836. London: Smith Elder and Co.
で、オンラインでは
http://darwin-online.org.uk/content/frameset?itemID=F271&viewtype=text&pageseq=1
で読むことが出来ます。

ダーウィンの"航海記"の第20章にその要約が載っていますので、比較的容易に内容を見ることが出来ます。

それによりますと、ダーウィンはまず、サンゴ礁を3種類に分類します:
1) 裾礁(きょしょう; fringing reef)..海岸沿いに形成されている
2) 堡礁(ほしょう; barrier reef)..海岸から距離を置いて並走する
3) 環礁(かんしょう; atoll)..中央に島がなくサンゴ礁だけが環状になっている
の3通りです。

(裾礁)

(堡礁の衛星イメージ)

(環礁の衛星イメージ)

"さんご礁形成の理論で、この三大区分を包括しないものは、完全なものとは思われぬ。" ("航海記"(下)第20章)

ダーウィンの考えは簡単にまとめれば次の通りです:
まず(火山島または大陸などの)陸地にすぐ接するようにサンゴ虫の活動により、陸地を間近で縁取ったような形の裾礁が出来ます。 きれいな水を好むというサンゴ虫の特徴のために内側よりも外洋側の方にわずかに高い礁が出来ることが多いようです。
時間とともに次第に陸地が沈降するとしてみましょう。すると、それまで陸地だったところを海水が占めることになりますが、あまり深い所では生きられないサンゴ虫が、それまで生活し骨格を堆積していた所でそのまま上方に、またはそれより外洋側に向ってしかも上方に、その生活活動および骨格を積み上げてゆきます。この結果、サンゴの石灰分が堆積する所と、後退する陸地の間には、海水の礁湖または水道が出来ることになります。この結果が堡礁(バリアリーフ)です。
このあと、さらに陸地の沈降が進む一方で、以前からサンゴ虫の活動する所では上へ上へと石灰質の積み上げが続けば、中央部にある陸地部分は海面下に沈んでも、周りのサンゴによる石灰岩の部分は海面上低くに姿をとどめ、環礁という形をなす、というわけです。

要するに、ダーウィンのサンゴ礁形成理論の基本にあるのは、サンゴ礁の存在する地域における陸地の沈降の事実だということになります。もちろん成因としてはいろいろな要因を加味して考えなければならないのでしょうが、ダーウィンの説によれば、基本的に上に分類した3種類のサンゴ礁の形態というのは、サンゴ礁一般というものの、陸地の沈降の速度ともかかわる各段階の表れである、ということになるわけですね。

ダーウィンの沈降説によればサンゴ礁の下部にもっとサンゴの層が存在することが予測されますが、実際その予測は後のボーリング調査で実証されているそうです。そしてまた現在のプレートテクトニクスの理論によれば大洋の火山島の沈降現象は十分納得のゆく現象だということです。

"われわれは一々の堡礁に、その土地が沈下したことの証拠を得、一々の環礁に、現在は既に消滅してしまった島々の記念碑を見る。われわれはこうして、一万年も生きつづけて、過去の変化の記録を握っている地質学者のように、この地球の表面が破壊し、陸と水とが互いに入れ代わった大きな機構について、若干の洞察をなし得ることとなる。"(同上)

(堡礁の図)

(環礁の図)

注1: ビーグル号とともにダーウィンの滞在した南キーリング諸島は全体でひとつの環礁で、個々の島はその水面に出ている部分です。

注2: ダーウィンの上記文献に載っているサンゴ礁分布図(クリックで拡大出来ます)..
1842_Coral_F271_fig10.jpg
(赤:裾礁 淡青:堡礁 紺:環礁)


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ビーグル号 [ビーグル号]

ビーグル号とは

ダーウィンがビーグル号に乗っている時の日記をこのブログの多くの記事では読んで行ってみてるわけですが、そのビーグル号とはどういう船だったのかということを一度は見てみないといけないでしょう。参考文献は比較的に新しい資料をもとに書かれた次の本です:
Keith Stewart Thomson, HMS Beagle, W.W.Norton, 1995, New York/London.

ビーグル号(HMS Beagle)はロンドンのテームズ川にあるウーリッジの造船所で建造され、1820年の5月11日に進水しました。その時代はナポレオン戦争直後、1814-15年のウィーン会議後のヨーロッパ新秩序のもとで、海上はそれまでに比べれば平穏な時代でした。
ビーグル号は最初建造された時、10個の砲門を持つ2本マストのブリッグ型の帆船でした。 ナポレオン戦争の前後、あるいはそのしばらく前からですが大型の艦船が主流となっていた英国においては、ビーグル号はとるに足らないほど小さな船で、ほとんど記録が残っていないとのことです。[注] 例えば、1805年のトラファルガー海戦でのネルソン提督の旗艦ヴィクトリー号(HMS Victory)は110門の砲を持っています。
また、ビーグル号の時期は帆船から蒸気船への推移が行われつつあった頃で、ビーグル号の姉妹艦のなかには最終的には蒸気船の曵き船に改造されるものも多かったと言います。ビーグル号は最初特に明確な目的を持って建造された船ではなく、ただ同種の何隻かのひとつとして建造されたようです。
それで、ビーグル号の初期の形の設計図はビーグル号自身ではなく姉妹艦のものを参照しないと分からないとのことです。同形の船は沈みやすいことで有名で"coffin brigs(棺ブリッグ)"などとあだ名されていたとのことですが、実際には後にビーグル号は世界周航において難所をいくつも乗り越えてきていて、結果としては比較的安全な船だったということになりますが、これはフィッツロイ艦長や士官、そして水兵たちの技倆がすぐれていたことだけではなく、ビーグル号が進水後2度にわたる大きな改造を受けていることにもよるかもしれないと言われています。しかしそれにしても、初期の(姉妹艦を含めた)設計が本当にそのようなあだ名を受けるほどのものであったかどうかについては疑問の残る所でもあるようです。なぜならその基本的な設計で船が造り続けられていたからです。

ビーグル号の初期の建造では満載排水トン数297トン、喫水12.5フィート(3.81m)、船首から船尾まで90フィート4インチ(27.53m)、最大横幅24フィート6インチ(7.47m)でかなり小さな船で、2本マストでした。特にビーグル犬の飾りなどは付けられていなかったようです。当時の海軍の標準どおりの黒い塗料が塗られ、上部に広い幅の白いストライプが塗られていたはずです。初期の建造では下甲板の採光が非常に悪かったようです。艦長の部屋は船尾にあり、そのさらに後ろにパンの貯蔵室があり、上甲板船尾の左舷側に信号旗のロッカー、右舷側にWCがありました。

小さな船ですから65人も乗るとなるととても大へんだったと思われます。艦長は通常一人他の士官たちとは離れた部屋にいて、副官や船医などはまた別ですが、その他の士官たちはその初期の設計では"食堂(messroom)"と呼ばれるところにいるわけです。
このクラスの船は90トンの真水、6.5トンの食料、6トンの石炭や薪を積むことが出来たのではないかといいます。このほかに2000ヤード(1829m)ほどの予備の帆布、船首錨を3つ、中錨を1つ、そして小さな副錨を1つ持ったようです。もちろん一応軍艦ですから平和の時期でも砲や火薬などを10トンは積んだだろうといわれます。これらを積んで補給なしで航海できる期間の長さは3ヶ月だろうということです。

操船は難しかったようで、ある統計では、1808年から1845年までに建造された(初期のビーグル号と)同様の船107隻のうち26隻が難破または沈んでいるけれども理由は不明となっているとのことです。操船が難しいだけでなく、帆走の性能があまりよくないとのコメントも多く見られたようです。(注:条件が良い場合で対水面速度時速9ノット(16.67km/h)程度だろうとも言われてます。)
しかし、それは次のように解釈出来るのではないかといいます。このクラスの船が最初に建造された頃はまだナポレオン戦争の時期で、海上は不穏でした。小さな艦船も厳重に武装して航行しなければならなかったわけです。ところがこれらの船は砲を上甲板に積まねばならなかったようで、重心が高くなってしまう傾向があったのではないかということです。ところが、ビーグル号が建造された時はすでに海上は平和の時代で、武装面では軽装備で良くなり、そうなればもう帆走面での性能に問題はなかったのではないかということです。特に、ビーグル号のフィッツロイ艦長は、改造後のビーグル号についてですが、この船はとても優れた船だということを強調しているようです。もちろん自分の監督して改造した船だという自負もあったでしょうが。ダーウィンが、ホーン岬近くで時化のために進行ままならないビーグル号上で、この船はとても出来のよい船なんだと2回ほども自分に言い聞かせるように日記に書いているのが印象的でもあります。

さて、上に述べましたようにビーグル号は他の姉妹艦と前後して1820年5月11日に進水するわけですが、すぐには任務は与えられず5年間ほども係留されたままでした。ただ1820年7月にジョージ4世の戴冠式の時のテームズ川での観閲式には川を遡り、初めて全装帆の船として(昔の)ロンドン橋をくぐった船となっています。そのあとはビーグル号は任務につかず、1825年にはドックで改造を受けてブリッグ型からバーク型の帆船となります。簡単に言ってしまえば、2本マストの船から3本マストの船になったわけです。さらに上甲板に変更がほどこされたようです。これは測量船として使うための改造だったようです。

さて、その測量ということですが、時代背景としてこういうことがあります。ナポレオン戦争終了後ウィーン体制のもとで海上の安全がかなり確保されて、パックス・ブリタニカ(英国による平和)といわれた時代、民間海上運輸は飛躍的に増大します。またそれまで英国はあまり南米とは関連が深くなかったのですが、ナポレオン戦争後の真空により英国は南米との取引を少なくとも一時的には多くするようになっていました。英国海軍はこれらの民間海上輸送を守る役割を負い、基本的には南米ひいては世界中どこでも民間船舶からの呼びかけがあれば(たとえば海賊を追い払うなどで)駆けつけられるようにという体制を整えようとします。
[注釈]ダーウィンを乗せたビーグル号の航海の時代的・歴史的背景というのはここに書いたものだけでなくもっと複数のそしてより広く長い観点から見ておく必要があると思いますが、それは後の機会に回す事にします。
ところが、英国海軍の役割としてそのような海賊の危険や奴隷貿易を防ぐ[基本的に1807年以降]ということだけではなく、民間船舶の安全航行のためにもそれまで不正確だった世界の海図を正確なものにあらためることが必須であるとの認識を、海軍は持つようになります。ここに英国海軍による測量船の派遣という要請がでてくるわけです。その一環としてビーグル号におよびがかかるわけですね。
比較的大掛かりな改造が行われたようで、1825年9月25日から翌年5月26日までかかっているようです。マストが3本の船になった以外に、船尾楼甲板下に船室(poop cabin)が増設され、船首楼もとりつけられたようですが、設計図が残っていないのでそれ以外の詳しいことが分からないようです。船尾楼甲板下に船室というのは海図を書くのに有利な大きなテーブルを据え付けられる利点があったようです。ビーグル号の1831年から1836年までの航海でダーウィンは(さらに改造した後の)船尾楼甲板下の船室にいたわけです。

さて、1825年9月に命令が発せられて、2隻の船を南米大陸南海岸測量のために準備することになります。2隻の船とは、ビーグル号と、キング大佐の乗るアドヴェンチュア号です。(注:このアドヴェンチュア号というのは後にフィッツロイ艦長がフォークランドで購入しバルパライソで売却した同じ名前の船とは関係ありません。)
ビーグル号の艦長としてはプリングル・ストークスという海尉艦長(Commander)が任命され、ビーグル号は上述の改造を受け、1826年5月22日に第1回目の測量航海に出発します。この航海の時はビーグル号は大きい横揺れをしやすかったようです。この航海ではマゼラン海峡で大へんな苦労をしたようです。最終的にはストークス艦長は自殺してしまいます。ビーグル号はいったんモンテビデオに行き、旗艦ガンジス号のロバート・オットウェイ卿の指示を受け、当時ガンジス号に乗っていた当時海軍での階級が海尉艦長であったロバート・フィッツロイ、当時23歳、をビーグル号の艦長に抜擢します。細部色々ありますがそれは省略して、とにかく、ビーグル号は第1回目の航海を1830年の10月14日に終え、1831年春遅くにはその航海についてのフィッツロイ艦長の責務は終了します。

その直後はそもそも2回目の航海があるかどうかわからなかったのですが、結局またビーグル号が測量航海にでることになり、さらなる改造をしなければなりませんでした。建造したのとは異なるデヴォンポート(プリマスの近く)のドックで長い時間をかけて改造が行われたようです。この改造にはフィッツロイ艦長が監督にあたりました。彼は多くのアイデアを持っていたようです。建造費用の97%の費用で(!)、解体と再建という改造が行われました。上甲板は船尾で8インチ(20.32cm)、船首で12インチ(30.5cm)高くされます。これで船として良くなるばかりでなく、下甲板の部屋での頭のつかえがなくなりそうだというわけです。舷墻を比例しては高くしませんでした。"それで甲板は乾きやすいだろう"とフィツロイ艦長は言います。船尾とそこにある部屋はこのとき完全に取り替えられています。舵やストーブなども当時の新型のものにしたようです。時化のときでも火が消えることがなく、温かいものが食べられるというわけです。避雷針も取り付けてありました。この時は士官には個室(個人用区画というべきかも知れませんが)がわりあてられたようです。画家(Conrad Martens)も途中から同行しましたが、同じように個室(区画わりあて)があったようですが、後に南米のバルパライソで測量の補助船(フォークランドで購入したアドヴェンチュア号)を売却せざるを得なくなった時、そちらの士官をビーグル号に移したために画家用の部屋がとれなくなり、彼はビーグル号を降りて別の船でタヒチに行ったようです。また、ダーウィンのいた船尾楼甲板下の船室というのは船尾から若干突き出た形になっていて船の揺れがそこで増幅されるので、船酔いしやすいダーウィンにとってはつらいものだったのではないかと思います。

(Philip Kingのスケッチに基づいた図)

さて、ダーウィンの乗った2回目の測量航海(1831-1836)の後、ウーリッジのドックでの修繕の後1837年の6月に蒸気船のタグボートでテームズ川に浮かんだビーグル号はプリムス港から1837年7月5日、ヴィクトリア女王即位直後にそのニュースを携えて、英国にとって重要になりつつあったオーストラリアの測量にむけ、今度はウィッカム艦長(病気のため後にストークスがかわりますが)のもとで3回目の航海にでかけ、1843年9月30日に6年におよぶ航海を終えています。

その後ビーグル号はもう大きな航海には出ることはなく、エセックスの海岸で錨をおろしたまま沿岸警備隊の"ビーグル監視船"となって密輸などの監視所としての任務に当たります。もうその段階ではふたたび帆走することは想定されていなかったのでマストは外されていたと言います。1859年には形式上の所属の変更に伴い名前がHMS BeagleからW.V.7と変えられてしまいます。その後密輸も少なくなり、1870年にW.V.7はいらなくなったということで、5月13日、マレイ・アンド・トレイナーというおそらくスクラップ会社に525ポンドで売られます。その後のことはまったく知られていなかったといいます。

ところが、最近、BBCで次のような報道がありました。
ロバート・プレスコット博士の率いるセント・アンドリュース大学のチームがエセックスの湿地にビーグル号(HMS Beagle)の残りものと思われるものをさがしており、あるいは発見したかもしれないということです。火星探査で使われる高性能のレーダー技術で、船底の木や金属の兆候を探すのに使われたということです。ポットン島の近くにある5メートルの泥の中に船の残りが見つかっているとのことで、まだそれがどういうものか分からないとのことです。考古学者の助けがいるかもしれないということです。どうなったでしょうか。

http://news.bbc.co.uk/2/hi/science/nature/3490564.stm

(第2回航海[C.ダーウィンが乗船した航海]の時、ポート・デザイアに停泊するビーグル号(左); ビーグル号に乗船していた画家Conrad Martensによる実際のビーグル号のスケッチ; 1833年12月25日)




3Dイメージ..


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ダーウィンのビーグル号日記(24) [ビーグル号]

["ダーウィンのビーグル号日記"というシリーズ記事は以前書いたもので、自分としては内容に不満足なので現在は原則として非公開とさせていただいております。そのうちで、この24番目の記事はガラパゴス諸島について書いたもので、後の参照の都合なども考え、これだけは公開とします。いずれ改訂することになると思います。]

ガラパゴス諸島(I)

今回はガラパゴス諸島について一般的な予備知識を少し集めておくことにしましょう..

ダーウィンの時の島の地図と名前

現在の島の地図と名前
galapagos-map_2.jpg
(図左上のふたつの島の組[ダーウィン島とウォルフ島]は実際の位置とは異なり中心部に引き寄せて示してあります。なおここでは余談ですがダーウィン島にはC.ダーウィンは上陸していません。)

ガラパゴス諸島 とは、南米大陸エクアドルから1000kmほど西の太平洋の中にある13個の主な島と、6個の小さな島、そしてさらに小さな岩礁、とからなる諸島でその範囲は5万9千500平方キロメートルにおよぶということです。この面積は日本の九州と四国の面積を足したものにほぼ匹敵します。もっとも、これは島が散在する範囲を考えての面積で、島の面積の合計ではありません。それでも意外に広い範囲にあると思いませんか。最大の島は現在イサベラ島と呼ばれている島(ダーウィンの時の名はアルベマール島)で、4千588平方キロメートルでこれは京都府(一部に京都市をもちろん含む)の面積とほぼ同等ですね。けっこう大きいです。その島の長さ約132kmで、面積はガラパゴス諸島の陸地面積の半分を占めるそうです。
大陸から約1000km離れているというと、もし陸橋がかかっているとして、毎日42.195kmのフルマラソンの距離を走って23日と半日でようやく到達する距離ですね。自転車で毎日100km走って10日間、1日10kmずつ泳いで100日間(つまり3ヶ月と10日ほど)です。でも、これは南からのフンボルト海流が強いうえにサメがいますからこの計算通りにはいかないでしょう。(問題:毎日この組み合わせでトライアスロンをしたらどのくらいで着くでしょうか。)


大体が玄武岩(火山岩)で出来ていて、ところどころに楯状火山があり、そのうちのいくつかは周期的な活火山だそうです。先に触れた最大の島イサベラ島のアスール山(1689m)は諸島での最高峰です。

なお、2番目に大きな島はサンタクルス島(ダーウィンの時はインデファティガブル島)ということになります。

ガラパゴス諸島の発見は1535年(マゼランの率いた船隊がマゼラン海峡を太平洋に抜けてから15年後)、パナマの司教トマス・デ・ベルランガの船がペルーへの航海中にコースを外れてのことでした。その時は別の名前が付けられたのですが、ベルランガ司教がその著書の中で多数の大きなカメ(galapagos)のことを賞賛したことや、またその後多数のスペイン人航海者が島々を訪れ、海賊や捕鯨船、そしてまたアザラシ猟の船も多く来て、スペイン語のガラパゴスの名前で呼ばれるようになったとのことです。発見から300年間ほどもどこの国も領有権を主張しなかったのですが、1832年にエクアドルが正式に所有することになり、南の方の島に植民をはじめたということです。ダーウィンの乗ったビーグル号が到着したのはその3年後の1835年のことになります。

ガラパゴス諸島の気候は、低降水量、低湿度、比較的低い大気温および水温によって特徴づけられるとされます。赤道直下と言って良い所なのですが、近くを南極海から流れるフンボルト海流という寒流が流れているんですね。
大多数の動植物は固有種で、乾燥した低地はサボテンが、より高い推移地帯では白粉花(オシロイバナ)やグアヴァが優越し、その上の湿気の多い地帯にはスカレシアの林が多いと言われます。木のない高地ではシダや草におおわれるようです。

さて、動物の方ですが、その特異な動物達は現在ではとても有名です。そのなかでもまず、巨大なカメ(ガラパゴスゾウガメ)は150年にもおよぶ地球上最長の寿命を持つと考えられています。

(一時はダーウィンが持ち帰ったカメがごく最近まで生きていたらしいなどというニュースが広まったことまでありましたが、その由来はあまり定かでないようです。)
ダーウィンフィンチ(またはガラパゴスフィンチ)と呼ばれる鳥の種類もいます。これの詳細はダーウィンが登場する次回以降、ダーウィンに語ってもらいます。でも実際はダーウィンがここにいた時はそれほど注目はしておらず[日記には1度しか言及していない]、後に整理がなされてからその島々での分布の問題が重要性を持って浮かんで来たとされます。
イグアナ(陸上生活をするリクイグアナと水中を泳ぐウミイグアナ)という動物の種類もいますね。

これら以外にまだまだ多くの種類の珍しい動物がいるのですが、いずれにしても動物については次回ダーウィンに語ってもらうことにします。

背景となる知識としてひとつ触れておかないといけないのは、ガラパゴス諸島の年齢についてなのですが、比較的最近の調査(1992年)では、近くの海山(の火山活動;ホットスポットと呼ばれるマグマの噴き出し口)が今から500万年ないし900万年前に島々を形作り、現存するガラパゴスの島々はそれより若くて70万年ないし500万年前にできたのだろうとされているようです。特にサン・クリストバル島とかエスパニョラ島の古い溶岩には300-500万年の古さを持つものがあるとされているようです。

(ペルーのリマ近くのカジャオ港からガラパゴス諸島までのビーグル号の航跡概念図)


(西暦2000年現在での人口16,917で、年間60,000人ほどの旅行者が1990年代の後半には訪れているとのことです。1978年にUNESCOが世界遺産に登録しています。)

galapagos_tortoise.jpg
出典: National Geographic

(問題の答え:1週間)

[参考] ガラパゴス諸島でのビーグル号の所在地(フィッツロイ艦長の記録による)..
1835年
9月
15日 チャタム島に東から近づく
16日 午前9時 バリングトン島沖
17日 午前9時 チャタム島 ステファンズ湾
18日 午前9時 チャタム島 ステファンズ湾
19日 午前9時 チャタム島の周囲を(時計まわりに)周回中
20日 午前9時 チャタム島の周囲を周回中
21日 午前9時 チャタム島 ステファンズ湾
22日 午前10時 チャタム島 ステファンズ湾
23日 午前10時 チャタム島 ステファンズ湾
24日 午前10時 チャールズ島沖
25日 午前9時 チャールズ島 ポスト・オフィス湾
26日 午前9時 チャールズ島 ポスト・オフィス湾
27日 午前6時 チャールズ島 ブラック・ビーチ泊地
28日 アルベマール島へ向かう
29日 正午 アルベマール島の南西端
30日 正午 アルベマール島西岸 エリザベス湾
10月
1日 午前9時 アルベマール島西岸 タグス湾
2日 午前9時 アルベマール島西岸 タグス湾
3日 午前10時 アルベマール島西岸 バンクス湾
4日 午前10時 アビングドン島沖
5日 午前10時 アビングドン島沖
6日 午前10時 タワーズ島沖
7日 午前10時 ビンドローズ島沖
8日 午前9時 ジェームズ島 .....(ダーウィンはこの日下船)
9日 午前9時 ジェームズ島 .....(ダーウィンはジェームズ島滞在)
10日 午前9時 ジェームズ島 .....(ダーウィンはジェームズ島滞在)
11日 午前9時 チャタム島 .....(ダーウィンはジェームズ島滞在)
12日 午前9時 チャタム島 .....(ダーウィンはジェームズ島滞在)
13日 午前9時 チャタム島 .....(ダーウィンはジェームズ島滞在)
14日 午前9時 フード島 .....(ダーウィンはジェームズ島滞在)
15日 正午 チャールズ島 ポスト・オフィス湾 (ダーウィンはジェームズ島滞在)
16日 午前10時 ポスト・オフィス湾 .....(ダーウィンはジェームズ島滞在)
17日 午前9時 アルベマール島東岸 ....(ダーウィンはこの日ジェームズ島で乗船)
18日 午前10時 ジェームズ島 シュガーローフ沖
19日 午前9時 アビングトン島沿岸
20日 午前10時 ウェンマン島沖 (ビーグル号はこの夕刻 タヒチ島に向けて出帆)


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