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ダーウィンのビーグル号日記(航海の感想) [ビーグル号]

ダーウィンによる航海の感想

ダーウィンは、ほぼ5年におよぶビーグル号での航海の最終過程、アゾレス諸島から英国までの船中で、日記に回想と感想を書き付けています。この部分はダーウィンの自分自身のためだけの記録というよりはあるいは後に誰かに助言を与える機会を考えての覚え書きだったかもしれません。

長い航海による損失としてダーウィンは次のような事柄をあげています:
1) 友人との交わり(の欠如)、
2) 親しい場所の眺め(の欠如)、
3) 不足しがちな居室、隔離、休息、
4) 絶えまない急忙の感覚(というマイナス面)、
5) 家庭的社交の欠如、
6) 音楽その他の空想の快楽の欠乏、
7) 船酔い(というマイナス面)..

こういったことに加えて、さらにダーウィンは、
"誇らかに称えられた涯のない大洋の壮観は何であるのか。それはものわずらわしい荒野、アラビア人のいう水の砂漠である"
として大洋の取っ付きの悪さを述べています。

これに対しダーウィンはまず、1)や2)の損失に関しては、いつか帰還するときにそれを回復することを予想することがまた実は楽しみなので一部は癒されるとしています。3)から6)については"些事"だとダーウィンは位置づけます。それに、ダーウィンの時代にはもう船旅は大きな欠乏にあうことなく実行出来るようになっていました。船の資材の改良があっただけでなく、アメリカ大陸の西海岸は当時はもういくつか港が出来て開放されていました。オーストラリアは擡頭しつつある大陸となっていました。このことによる補給の便宜はキャプテン・クックの時代とは大違いになっていました。
船酔いしやすいダーウィンは、7)の船酔いについては、それは"1週間で癒せる些細な災厄ではない"として重大視しています。そうではあるけれども、楽しい場面を次のように挙げます..

"晴れた空と、きらめく暗い海と、徐ろに吹く貿易風の軟かな空気をはらんだ白帆との月光の夜、鏡のように磨かれて、もり上がる海面と、おりおり帆布のはためきの他にはすべて静寂の凪、驟雨がアーチのような雲をふり上げて、怒って馳せてくるところと、あるいははげしい疾風と、山のような浪とは、一度は見る価値がある。"

しかしまた、恐怖を感ずることも多かったようです。
"しかし私の想像は、完全に大きくなった暴風のうちに、それよりも壮大なおそるべきものを心に描いていたことを自白する。..海上ではぐんかんちょうと、小さなうみつばめとが、嵐をその本来の領域であるかのように翔び、海はその日常の仕事を遂行するように昇り、また沈み、船のみが乗組員とともに、憤りの対象物となっている。"

まあ、300トンに満たない帆船で、いくつも大洋を横断して来たわけですから、この感想は簡潔ですが、実景を与えてくれるように思います。

さて、ダーウィンの風光についての感想ですが、まず、

"絵のようなヨーロッパの美しさは私の見たところのものよりたぶんかなり勝れているだろう"

と書くのですが、これは一刻も早く故郷に着きたいと思う帰途の船の中で書かれたものであることを考慮しても、後に"航海記"でもこの形で発表していることを考えれば、十分ダーウィンの変わらぬ本心を表しているだろうと思われます。実際彼はこの航海中色々な所で山や丘に登りましたが、その際随所でウェールズの光景を思い出しています。

ところが一方で、

"私がヨーロッパの諸部の風光がおそらくわれわれが見たところのものより勝れているといったばあいは、私は熱帯圏内のものを独特の階級として、これを除外している。この2つの階級は、これを一しょにして比較してはならない。"

熱帯圏の風光についてはフンボルトの本を読んで強い影響を受けたダーウィンはかなり強い期待を持っていたようです。実際にブラジルで見た熱帯林は期待を裏切らなかったわけです。そのことについてはブラジルで書かれた彼の日記部分を読めば一目瞭然です。
さて、

"私の心に深く印象を与えた風景のうちで、「生」の力が支配しているブラジルの森林にしても、「死」と「腐朽」とがあまねく存するティエラ・デル・フエゴにしても、荘厳の点では人間の手に損なわれていない原生林に勝るものはなかった。両者はいずれも「自然の神」の多種多様な生産物で満たされた殿堂である。

"過去の像を呼びおこせば、パタゴニアの平原が、しばしば眼の前にうかんでくる。.. 何故にこの乾燥した荒野が私の記憶の中にこれほどもしっかりとした足場を得たのであろうか。..私にはこの感情の分析ができそうもない。しかしその一部は空想に与えられた自由の領域によるものでなければならない。パタゴニアの平原は限界がない。それは通過もほとんどできないからである。従って、未知のものである。それは今あるがままに、幾多の時代に亘って残存した刻印を担っている。また将来の時間を通して、その耐久には限りないもののように見うけられる。もし古人が想像したように、平坦な大地が、越えがたい広さの水によって、あるいは堪えかねるまで過熱された沙漠によって囲まれたものとしたなら、誰か名状しがたい深い感動をもって、この人間の知識の最後の限界をみつめないものがあろうか"

"高く聳えた山々からの眺めは、ある意味からいえば、確かに美しいとはいえなくても、いちじるしく記憶に値するものである。最も高いコルディエラ(注:アンデス山脈)の峠から見下ろしたとき、心は繊細な細部によって妨げられず、周囲の気も遠くなるほどの大きさの集塊によって堪能した。"

また、先住民との出会いからも強い印象を受けました。

"心は急速に過去の幾多の世紀を馳せもどって、それからわれわれの祖先も、かかる人類であったかと疑問を生ずる。"

これはおそらくティエラ・デル・フエゴでフエゴ人達(ヤマナ族)を見た時のことだろうと思われます。

注:航海を終えてから40年ほども経過した1876年にダーウィンは家族用に"自伝"を書きますが、そこでも次のように印象を書いています:
"熱帯の植生の壮観は今(注:自伝を書いた時点)でも何にも増していきいきと心の中に蘇ってくる。他方、パタゴニアの巨大な沙漠やティエラ・デル・フェゴの森林に覆われた山々によって内心に呼びおこされた荘厳の感覚というものは私の心に消す事の出来ない印象を与えている。その郷土における裸体の未開人の姿を見た事も決して忘れられない出来事である。("自伝"p.80)

"日記"にはさらに次のように印象に残った事物を挙げています:
"この次にわれわれの見た極めて著しい観物のうちには、次のものを挙げたい。南十字星、マジェランの雲、その他の南半球の星座 - 竜巻き - 青い氷の流れを導いて、そばだつ断崖で海に懸かる氷河 - 岩礁をつくるさんご虫によって持ち上げられた礁湖島 - 活動する火山 - 兇暴な地震の圧倒的な効果。後の方の現象はこの世界の地質構造に密接な連絡があるため、おそらく私に特殊な興味を持たせたものである。ともあれ、地震はあらゆる人々に最も印象の深い事件であったに相違ない。われわれは極めて幼い少年時代から、動かないことの手本と考えられていた大地が、薄皮のように、脚下で動揺した。そして人間の労力の成果が一瞬にして倒潰するのを見ては、人間の誇とする力の無価値が感ぜられる。"("日記"および"航海記")

まとめ..
"私はこの航海を深く享受したので、私の場合ほど同伴者に恵まれることは期待できないとしても、あらゆる機会を利用するように、またできたなら陸路の旅に、然らずば長途の航海に発足するようにと、どんな博物学者に対しても奨めないではいられない。彼は稀なばあいを除いて、予め心配した最悪に近い困難にも、危険にも遭うことはないと、保証されるであろう。道徳の見地からは、この旅行の効果は、快活な忍耐心を養わせ、我儘を去り、みずから進んで事をなす習慣と、あらゆる出来事に全力をつくすことをおしえるにちがいない。つまり、彼は一般の船乗りの特徴とする性質を分担すべきである。旅行はまた、軽々しく人を信ずべからざる事を教えるにちがいない。しかしそれと同時に、曾て何の交渉もなく、また将来も決して交渉があるまいと思われるにもかかわらず、甚しく損得を度外視した助力を、いつでも提供しようとする、ほんとうに親切な人々が、いかに多くいるかを発見するであろう。"("日記"および"航海記")

ダーウィンは英国に帰ってから、南米大陸で収集して別の船で英国に送っていた標本や、太平洋からインド洋そして大西洋を越えて持ち帰った標本、という資料の整理をし、他の専門家をも交えて"ビーグル号航海の動物学"という出版物の編集(1838~1839年)をしたり、フィッツロイ艦長の編集する報告書の一環として"ビーグル号航海記"(1839年)を書くという形で航海の整理を行います。"航海記"は後に(1845年)改訂され独立して出版されます。その間1842年にはサンゴ礁についての論文を書いてもいます。

この後のダーウィンの著述活動が極めて重要なものとなるのは周知の所です。いずれ機会を見つけて書いてみたいと思います。


タグ:まとめ
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