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C.ダーウィンの日記(1836年10月2日から11月7日) [ダーウィンが行く(後半)]



C.ダーウィンの日記(10月2日 C.ダーウィン ファルマスにて下船 ただちに故郷へ向かう馬車に乗る; 11月17日 ビーグル号はテームズ河ウーリッジにて第2次航海を終える)

[日記訳]

(1836年)10月2日

とても厳しい天候ではあったが[注]、まずまずの短い海上移動の後、私たちはファルマスで錨を下ろす所まで辿り着いた。驚きまた恥ずかしい事に、イングランドの岸を最初に見ても、みすぼらしいポルトガル人の居住地を見た時以上の何らの温かい感情も湧いてこなかった事を告白する。
[注] 例えば、Capt. R.FitzRoy(フィッツロイ艦長)の記す1836年10月1日午後2時の天候は "北西の風、風力10、青空と雲、スコール、驟雨、水温摂氏14.7度。"

その夜(恐ろしいほどの嵐の夜だったが[注])、私はメール[コーチ]にてシルズベリに向けて発った[*注]
[注] R.フィッツロイ艦長の記す10月2日深夜の天候は "風力11、全天曇り、荒れ模様、暗い、スコール、気温摂氏9.4度。"
[*注] シルズベリはC.ダーウィンの父や姉たちの住家のある所で、彼が父と姉の住む家に到着したのは4日の夜遅く。その家の人々の前に突然現われたのが5日の朝食時であると云う。この段階ではC.ダーウィンはその持ち物をビーグル号に積んだままであったことが6日付けヘンズロー宛の手紙などから読み取れる。


4日

ビーグル号はプリマスに進み、そこに17日まで留まった。

18日

[ビーグル号は]テームズに向けて出帆し、途中ポーツマスとディールを経て河を遡り28日にグリニッジに着いた。

11月7日
船はウーリッジ[注]まで下り、そこで17日、任務を完了した[*注]
[注] テームズ河沿い。造船所があり、ビーグル号が1820年5月11日に進水した所である。
[*注] ビーグル号がこの第2次航海の任務に就いたのは1831年7月4日。その任務達成をより確実にするための大きな改造を経た後に、C.ダーウィンを乗せてプリマス湾から出帆したのが1831年12月27日。出帆の翌日から数えて任務完了まで4年10ヶ月と21日。C.ダーウィンが乗っていたのは10月2日までなので、この下船日は出帆の日の4年9ヶ月と5日後(途中タヒチで日付変更)。
出帆日の日記(アーカイヴ; 参考).. http://saltyfumi.blog.so-net.ne.jp/1831-12-27




[地図1] ファルマス ..

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[地図2] ウーリッジ ..

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[日記原文]
October 2nd
After a tolerably short passage, but with some very heavy weather, we came to an anchor at Falmouth. — To my surprise and shame I confess the first sight of the shores of England inspired me with no warmer feelings, than if it had been a miserable Portugeese settlement.1 The same night (and a dreadfully stormy one it was) I started by the Mail for Shrewsbury. —
1 A note in the margin reads: 'Mem: Freycinet remarks after his troubles'. See Louis Claude Desaulses de Freycinet, Voyage autour du monde, entrepris par ordre du Roi. 4 vols. Paris, 1824–6.

4th
The Beagle proceeded to Plymouth; where she lay till the 17th. —1

1 On the following day, CD wrote from Shrewsbury to his uncle Josiah Wedgwood II: 'The Beagle arrived at Falmouth on Sunday evening, & I reached home late lastnight. My head is quite confused with so much delight, but I cannot allow my sisters to tell you first, how happy I am to see all my dear friends again. I am obliged to return in three or four days to London, where the Beagle will be paid off, & then I shall pay Shrewsbury a longer visit. I am most anxious once again to see Maer, & all its inhabitants, so that in the course of two or three weeks, I hope in person to thank you, as being my first Lord of the Admiralty.' See Correspondence 1: 504.
On 6 October he wrote to FitzRoy 'I arrived here yesterday morning at Breakfast time, & thank God, found all my dear good sisters & father quite well. —…I wish with all my heart, I was writing to you, amongst your friends instead of at that horrid Plymouth. But the day will soon come and you will be as happy as I am now — I do assure you I am a very great man at home — the five years voyage has certainly raised me a hundred per cent. I fear such greatness must experience a fall. — … I thought when I began this letter I would convince you what a steady & sober frame of mind I was in. But I find I am writing most precious nonsense. Two or three of our labourers yesterday immediately set to work, and got most excessively drunk in honour of the arrival of Master Charles. — Who then shall gainsay if Master Charles himself chooses to make himself a fool. Good bye — God bless you — I hope you are as happy, but much wiser than your most sincere but unworthy Philos. Chas. Darwin.'


18th
Sailed for the Thames, calling on her way at Portsmouth & Deal, & got up the river to Greenwich on the 28th. —

November 7th
She moved down to Woolwich, where on the 17th she was paid off. —


cdarwin_s.jpg

ここで扱うのは私の以前書いていたブログ "ダーウィンの日記(III)"
[特に http://saltyvoyage.blog.so-net.ne.jp/1836-10-02 以降]
からの再録になります。ただし、訳文や付加する地図などに対して、改良を加えてます。


 
 
 
 

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C.ダーウィンの日記(1836年9月25日) [ダーウィンが行く(後半)]


C.ダーウィンの日記(大西洋; 航海を振り返る(後編))

[日記訳]

(1836年9月)25日[3]

さて、つぎに明るい側面を見ることにしよう。

訪れてきた色々な土地の情景や一般的様相を見ることによる楽しさは、確かに、もっとも変わることなくまた最高の楽しみの源泉であり続けた。
ヨーロッパの多くの場所の絵画的な美しさが私たちの見て来た何ものを凌ぐということはあり得ることである。だが異なった土地の情景の特徴を比較することには、単にその美を賛嘆するだけとは数段違った、増大してゆく喜びがある。そのことはさらに各々の眺望の個々の部分に通じているということによるのである。各音符を理解している人は、もし真の嗜好をも持ち合わせていれば、全体をより完全に楽しむであろうという音楽の場合と同様だと私は強く思うようになっている。そういう具合に、素晴らしい眺望の各部分を観察する人も全体のそして複合的効果を完全に理解することができるであろう。 そういうわけだから、旅行者は植物学者でなければならないことになる。というのは全ての眺望において植物が主要な装飾を形成しているからである。大量のむき出しの岩の寄り集まったものは、そのもっとも自然の形態においてさえも、しばらくは壮大な景観を提供するかもしれないが、それらはやがて単調なものとなる。それらを明るい様々の色で塗ってみたならば、それらは素晴らしいものとなる。それらを植生で覆いたまえ、するとそれらはとても美しい絵とはならなくとも、少なくともそこそこの光景を形成することであろう。

ヨーロッパの情景が私たちが見てきた何ものよりも優れているかもしれないと私が言った場合、熱帯地域のそれを、その類自体としてであるが、例外としなければならない。そのふたつは互いに比較することは出来ない。それでも私は後者の気候の壮大さをあまりにもしばしば誇張して来ている。印象の力強さというのは頻繁に先入観に依存するものであり、私は自分のそれはすべて Personal Narrative[注]における活き活きとした描写によっていて、これによる恩恵はその主題についてかつて読んだ何ものをも遥かに凌いでいるのである。 だがこれらの念入りに仕上げられた概念を持っていたとしても、ブラジルの海岸に私がはじめて上陸した時、私の感覚が失望の色合いを帯びることからは遥かに遠いものであったのである。
[注] Alexander von Humbordt の著書である Personal Narrative of Travels to the Equinotical Regions of America during the Years 1799-1804 (English translation by Helen Maria Williams from French; この英訳の第3版[1822]をC.ダーウィンがビーグル号に持ち込んでいる; この後にThomasina Rossによる別の英訳[1851]があるがC.ダーウィンのこの航海後の発行) のこと。

私の心に深く印象づけられている情景のうちで、人手の加わっていない原生林の荘厳を越えるものはない。それらが生命の力が支配的となっているブラジルのものであろうと、あるいは死と腐朽が卓越しているティエラ・デル・フエゴのものであろうとである。双方ともが自然の神[God of Nature]の多様な産物で満たされている神殿である。これらの地においてひとりでいると、人の内には単にその身体の息というもの以上のものがあると感じざるを得ないのであり、誰でも感動せざるを得ないのである。

過去の心象を呼び起こす時、パタゴニアの平原が最もしばしば眼前に現れて行き来することに私は気付く。だがこれらの平原はきわめてひどく不毛であると全ての人によって断言されているものなのだ。それらは負の特性によってのみ特徴づけられている - 居住地はなく、水がなく、樹木がなく、山がない。そこには単に若干の矮小な植物だけが生育出来る。それならば何故、これは私だけに特有のことではないのだが、これらの乾燥した荒野が記憶のうちにしっかりと位置を占めているのだろう? もっと平らで緑多く肥沃な、そして人類に役立つパンパがこれと同等の印象を生み出さないのだろう? 私はこれらの感覚を分析するということがほとんど出来ない。だが、それは想像力に与えられた自由な視野というものに部分的にはよっているに違いない。それは果てしなく、ほとんど通行が出来ないので、ゆえに未知である。そのようにして幾つもの時代を経て来ている印を帯びていて、さらにそれらの未来にかけての持続は際限がないように思えるのだ。もし、古代人が想像したように、平らな地平が通行不可能なほどに広い水面、あるいは耐え難いほどに熱せられた沙漠、で囲まれていたとしても、この人類の知識の最後の辺境を誰が深いがしかし何とも言いようのない感動を覚えずに見ることであろうか。

自然の情景についての最後になるが、高い山々からの眺望は、確かにある意味においては美しくはないが、とても記憶に残るものではある。最高のコルディジェラ[アンデス山脈]の峰から見下ろした時、細部に邪魔されることなく、周りを取り巻く山塊の途方もない規模のことで胸がいっぱいになったことを、私は覚えている。

個々の対象としては、真の未開人を、最下位のそしてもっとも野性的な状態の人を、その現地で最初に見た時よりも驚くべき何があるかについては誰も確かではないだろう。心は過去何世紀をも大急ぎで溯り、そして私たちの祖先もこんな風であり得たのだろうかと問う。 人ではあるが、その身振りや表情が私たちには家畜のそれよりも理解しがたく、それら動物の本能を所有せず、さらには人間の理知あるいは少なくともその理性による技量を持つとは見えない。私には、野生人と文明人との差異を叙述ないしは描く事が可能だとは思えない。野生と馴らされた動物の違いである。そしてまた野生人を見る事における関心の一部は、誰もが荒れ地におけるライオンを、密林で餌動物を引き裂くトラを、広い平原上のサイを、あるいはアフリカのどこかの河の泥の中に浸かるカバを見たいと思わせるだろうものと同じである。

他に私が見た最も注目に値する光景を並べてみる事も出来よう - 南半球の星々、竜巻[water-spout] - 氷河がその蒼い氷の流れの先端を険しい断崖にして海面に突き出している様 - サンゴを形成する微小動物によって形づくられた礁湖島 - 活火山 - 激しい地震がもたらした圧倒的な事柄 -
多分この一番後の現象が、世界の地質学的構造と密に連結しているわけだから、私がより高い関心を持った事柄である。 しかし誰にとっても地震は最も印象深い出来事だったに違いない。固い地面が、最も幼い子供の頃から堅実さの典型そのものと考えられていたものが、足の下で薄い外皮のように振動したのである。そして人のなした最も美しく凝った業(わざ)が瞬時のうちに打ち倒されるのを見れば、私たちは人の誇る力というものの取るに足らなさを感ずる次第なのである。

狩猟の楽しみというものは、本能的情熱の名残であり、人の固有の喜びであると云われてきている。そうであるとして、天空を屋根とし地面を卓とする屋外での生活はその同じ感覚の一部であることは私には確かだと思われる。それは未開で本来の習慣への野性的な回帰である。私たちのボートでの巡航や、自分の陸地の旅において人の稀にしか訪ねない土地を通った時のことを、私は一種極度の喜びを持っていつも振り返るのであり、それは文明のどんな情景も生み出す事のない喜びなのである。 どの旅行者もが、文明人が稀にしかまたは全く歩んだことのない慣れぬ土地[clime]において呼吸していることを単に意識することで湧き上がってくるよろこびというものを憶えているであろう事を私は疑わないものである。

長い航海の間には、他に、多分もっと納得のいきやすい、いくつもの喜びの源泉がある。世界地図は空白地を持つ事をやめる。それは最も多様で生気のある図で満ちる。各部分がその真の規模を示す。大きな大陸は島々に照らしては見られず、島々は、真実としてはヨーロッパの多くの王国よりも大きいのであるが、単なる斑点としては考えられない。アフリカ、あるいは北および南アメリカ、は響きの良い名前を持ち分かりやすい。だが、何週間かその海岸の小部分にでも沿って帆走してみるまでは、それは全くの廃墟である。

現状を見るにつけても、ほぼ全半球の将来を、より高い期待を持って見ないわけにはいかない。南海へのキリスト教の導入の結果としての改善の進行は、多分それ自身破られない世界の記録であろう。わずか60年前、クックは、その最も優れた判断力は何ものも疑問視しない所であるが、このような変化の見込みを予見する事が出来なかったのである。しかも今やこれらの変化は英国民の博愛主義的精神によって実現されて来ているのである。

地球のその一画にオーストラリアが文明の壮大な中心地に興隆しつつあり、いや実際には興隆したと云う事が出来るのかもしれないが、それほど遠くない時期には南半球の女王として君臨することであろう。英国人としては、これら遠くの植民地を高い誇りと満足を持たずにみるということは出来ないのである。英国の旗を掲げるということが、富、繁栄そして文明を結果として引き寄せているように見えるのである。


結論として、若い博物学者を磨くことにおいて遠い土地への旅行よりもまさるものはないように思われる。それは、J.ハーシェル卿が云うように、人の経験する欲望や切望を鋭くもしまた部分的には和らげるのであり、他方で全ての身体的感覚は十分に満足させられるものだ。対象の新奇さによる興奮と成功の機会は活動へと促す。さらに数多くの個々の事実はやがて興味を惹かなくなるにつれて、比較の習慣が一般化へと導く。他方、旅行者がわずかの時間だけ各々の場所に留まると、その叙述は一般に細部にわたる観察ではなく単なるスケッチとならざるをえない。そうすると、私自身の代償によって分かったわけだが、知識の広い間隙を不正確で表面的な仮説によって埋めるという定常的な傾向が出て来ることになる。

だが、私はこの航海をすこぶる楽しんだのであるから、どの博物学者に対しても、あらゆる機会をとらえて可能なら陸路、さもなくば長い航海に出発するように勧めないわけにはいかない。彼は前もって想像するほど深刻などのような困難にもあるいは危険にも(稀な場合を除いて)出会う事はないと安心していられるであろう。
道徳的な観点においては、その効果としては、彼に陽気な忍耐、無私、自分自身で行動したり全てを最大限に活用する習慣、さらには満足といった、手短に言えば水兵の多くの者の特徴的属性というものを帯びることになる。旅行によって他人を信用しないようにも教えられるはずだが、ところが同時に、彼はいかに多くの優しい人々がいるのかという事をも見出すであろう。その人とは彼はそれ以前に交流をもったことがなく、そしてまた再び交流を行う事もないとしても、その人は彼に対して最も無欲の助力を提供する事を惜しまないのである。


[日記原文] [September 25th; the thrid part]
Let us now look at the brighter side of the past time. The pleasure derived from beholding the scenery and general aspect of the various countries we have visited, has decidedly been the most constant and highest source of enjoyment.

It is probable that the picturesque beauty of many parts of Europe far exceeds anything we have beheld. But there is a growing pleasure in comparing the character of scenery in different countries, which to a certain degree is distinct from merely admiring their beauty. It more depends on an acquaintance with the individual parts of each view: I am strongly induced to believe that as in Music, the person who understands every note will, if he also has true taste, more thoroughily enjoy the whole; so he who examines each part of [a] fine view may also thoroughily comprehend the full and combined effect.
Hence a traveller should be a botanist, for in all views plants form the chief embellishment. Group masses of naked rocks, even in the wildest forms; for a time they may afford a sublime spectacle, but they will soon grow monotomous; paint them with bright and varied colours, they will become fantastick[sic]; clothe them with vegetation, they must form, at least a decent, if not a most beautiful picture.

When I said that the scenery of Europe was probably superior to anything which we have beheld, I must except, as a class by itself, that of the intertropical regions. The two can not be compared together; but I have already too often enlarged on the grandeur of these latter climates. As the force of impression frequently depends on preconceived ideas, I may add that all mine were taken from the vivid descriptions in the Personal Narrative4 which far exceed in merit anything I have ever read on the subject. Yet with these high wrought ideas, my feelings were very remote from partaking of a tinge of disappointment on first landing on the coast of Brazil.
Among the scenes which are deeply impressed on my mind, none exceed in sublimity the primeval forests, undefaced by the hand of man, whether those of Brazil, where the powers of life are predominant, or those of Tierra del Fuego, where death & decay prevail. Both are temples filled with the varied productions of the God of Nature: — No one can stand unmoved in these solitudes, without feeling that there is more in man than the mere breath of his body. —

In calling up images of the past, I find the plains of Patagonia most frequently cross before my eyes. Yet these plains are pronounced by all most wretched & useless. They are only characterized by negative possessions; — without habitations, without water, without trees, without mountains, they support merely a few dwarf plants. Why then, and the case is not peculiar to myself, do these arid wastes take so firm possession of the memory? Why have not the still more level, greener & fertile Pampas, which are serviceable to mankind, produced an equal impression? I can scarcely analyse these feelings. —
But it must be partly owing to the free scope given to the imagination. They are boundless, for they are scarcely practicable & hence unknown: they bear the stamp of having thus lasted for ages, & there appears no limit to their duration through future time. If, as the ancients supposed, the flat earth was surrounded by an impassable breadth of water, or by deserts heated to an intolerable excess, who would not look at these last boundaries to man's knowledge with deep, but ill defined sensations. —
Lastly of natural scenery, the views from lofty mountains, though certainly in one sense not beautiful, are very memorable. I remember looking down from the crest of the highest Cordillera; the mind, undisturbed by minute details, was filled by the stupendous dimensions of the surrounding masses. —

Of individual objects, perhaps no one is more sure to create astonishment, than the first sight, in his native haunt, of a real barbarian, — of man in his lowest and most savage state. One's mind hurries back over past centuries, & then asks could our progenitors be such as these? Men, — whose very signs & expressions are less intelligible to us than those of the domesticated animals; who do not possess the instinct of those animals, nor yet appear to boast of human reason, or at least of arts consequent on that reason. I do not believe it is possible to describe or paint the difference of savage and civilized man. It is the difference between a wild and tame animal: and part of the interest in beholding a savage is the same which would lead every one to desire to see the lion in his desert, the tiger tearing his prey in the jungle, the rhinoceros on the wide plain, or the hippopotamus wallowing in the mud of some African river. —
Amongst the other most remarkable spectacles, which we have beheld, may be ranked, — the stars of the Southern hemisphere, the water-spout — the glacier leading its blue stream of ice in a bold precipice overhanging the sea — a lagoon island, raised by the coral forming animalcule — an active volcano — the overwhelming effects of a violent earthquake. —
These latter phenomena perhaps possess for me a higher interest, from their intimate connection with the geological structure of the world. The earthquake must however be to everyone a most impressive event; the solid earth, considered from our earliest childhood as the very type of solidity, has oscillated like a thin crust beneath our feet; and in seeing the most beautiful and laboured works of man in a moment overthrown, we feel the insignificance of his boasted power. —

It has been said that the love of the chace[sic] is an inherent delight in man, — a relic of an instinctive passion. — if so, I am sure the pleasure of living in the open air, with the sky for a roof, and the ground for a table, is part of the same feeling. It is the savage returning to his wild and native habits. I always look back to our boat cruizes & my land journeys, when through unfrequented countries, with a kind of extreme delight, which no scenes of civilization could create. — I do not doubt every traveller must remember the glowing sense of happiness, from the simple consciousness of breathing in a foreign clime, where the civilized man has seldom or never trod.

There are several other sources of enjoyment in a long voyage, which are perhaps of a more reasonable nature. The map of the world ceases to be a blank; it becomes a picture full of the most varied and animated figures. Each part assumes its true dimensions: large continents are not looked at in the light of islands, or islands considered as mere specks, which in truth are larger than many kingdoms of Europe. — Africa, or North & South America, are well-sounding names and easily pronounced, but it is not till having sailed for some weeks along small portions of their coasts, that one is thorough ash;


From seeing the present state, it is impossible not to look forward with high expectation to the future progress of nearly an entire hemisphere. The march of improvement, consequent on the introduction of Christianity through the South Sea, probably stands by itself on the records of the world. It is the more striking when we remember that but sixty years since, Cook, whose most excellent judgment none will dispute, could foresee no prospect of such change. Yet these changes have now been effected by the philanthropic spirit of the English nation.
In the same quarter of the globe Australia is rising, or indeed may be said to have risen, into a grand centre of civilization, which, at some not very remote period, will rule the empress of the Southern hemisphere. It is impossible for an Englishman to behold these distant colonies, without a high pride and satisfaction. To hoist the British flag seems to draw as a certain consequence wealth, prosperity and civilization. —

In conclusion, — it appears to me that nothing can be more improving to a young naturalist, than a journey in distant countries. It both sharpens and partly also allays that want and craving, which as Sir J. Herschel remarks, (Note in margin: Discourse on the Study of Natural Philosophy, p. 3.), a man experiences, although every corporeal sense is fully satisfied. The excitement from the novelty of objects, and the chance of success stimulates him on to activity. Moreover as a number of isolated facts soon become uninteresting, the habit of comparison leads to generalization; on the other hand, as the traveller stays but a short space of time in each place, his description must generally consist of mere sketches instead of detailed observation. Hence arises, as I have found to my cost, a constant tendency to fill up the wide gaps of knowledge by inaccurate & superficial hypotheses.

But I have too deeply enjoyed the voyage not to recommend to any naturalist to take all chances, and to start on travels by land if possible, if otherwise on a long voyage. He may feel assured he will meet with no difficulties or dangers (excepting in rare cases) nearly so bad as he before hand imagined. —
In a moral point of view, the effect ought to be, to teach him good humoured patience, unselfishness, the habit of acting for himself, and of making the best of everything, or contentment: in short, he should partake of the characteristic qualities of the greater number of sailors. — Travelling ought also to teach him to distrust others; but at the same time he will discover how many truly goodnatured people there are, with whom he never before had, nor ever again will have any further communication, yet who are ready to offer him the most disinterested assistance.

3 Followed by deleted sentence: 'In our five years the excess of days, during the whole of which the anchor has been down, over the remainder, has scarcely equalled fifty.'
4 By Alexander von Humboldt. See note 2 for entry of 16 January 1831, p. 24.




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ここで扱うのは私の以前書いていたブログ "ダーウィンの日記(III)"
[特に http://saltyvoyage.blog.so-net.ne.jp/1836-01-12 以降]
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C.ダーウィンの日記(1836年9月25日) [ダーウィンが行く(後半)]

C.ダーウィンの日記(大西洋; 航海を振り返る(1))

[日記訳]

(1836年9月)25日[その2]

私たちの航海が終わるにあたり、私はこの5年間の放浪の利点・不利な点、苦痛・喜びといったものについての手短な追想を行うことにしよう。

もしもある人が長い航海に乗り出す前に私の助言を求めるようなことがあるとするならば、私の答えは、それで獲得されるであろういずれかの知識分野へのその人のしっかりとした嗜好に依存することになろう。疑いもなく、様々な土地や人類の様々の人種[races]を見ることには高度の満足があるのだが、それで得られる喜びは不快を埋め合わせるものではない。何らかの成果が得られいくらか善いことが結果する時の収穫を待ち望むことが必要となるのだ。それがいつのことか遠い先のことだとしても。

失うものとして体験する多くの事柄は明らかである。つまり、昔からの全ての友人たちとの社交の喪失や、大切な思い出と密接に結びついてる場所々々を見ることが出来なくなるということである。これらの喪失はその時においては、帰還の日の尽きない喜びを遠い先において待ち望むということによって部分的に和らげられるものではある。詩人が語るように人生が夢だとして、そうした事柄は長い航海における長い夜にもっとも楽しく通り過ぎてゆく幻である。

それ以外に失うものとしては、はじめは感じ取れないとしてもしばらくして深刻さが分かるのだが、周りの人から離れたり休息するための余地の欠如である。そのためいつも忙しい感じがして疲労感がある。また、ちょっとしたぜいたく、文明生活の安らぎ、家庭的社交や、さらには音楽や他の想像力の楽しみ、といった物事の欠乏がある。

こんな風に些事に言及してはおくが、海上の生活の実際の不満な点が(事故を別とすれば)終わっているのは明らかなのである。60年というわずかの期間のうちに外洋航海の手段においてとても驚嘆すべき変化が起きてきたわけなのだ。クックの時においてさえ、このような探検のために心地良い暖炉辺を離れた者は欠乏を耐え忍んだものである。今では生活のあらゆる贅沢品を備えたヨットが地球を周航するであろう。船や船舶用品における相当な改良に加えて、アメリカ[大陸]の西の海岸全体が開かれている。さらにオーストラリアは興隆しつつある大陸の中心地となっている。今の太平洋での難破者はクックの時代のそれと比べたらなんと状況が異なることであろうか。彼の航海以来、地球の半球がさらに文明世界に加わったのだ。

もし船酔いにかなり苦しむ人ならば、天秤にかけるにあたってはそれには重きを置いた方がよい。経験から私は語るのだが、それは1週間といったもので治せるような些事ではない。もしも海事に楽しみを持つのであるならその嗜好には十分応えられるであろう。だが水兵の多くの者さえも、と私には思えるのだが、海そのものをほとんど好んではいない。長い航海のうちで港での日々に比すればいかに多くの時間が水上で過ごすされるものであるかということは念頭に置かれねばならない。

そもそも果てしない太洋の栄光として吹聴されるものは何であろうか? 退屈な浪費であり、アラビア人がそう呼ぶように水の沙漠である。 疑いもなくいくつかの喜ばしい情景はある。それは、月の光の夜、晴れた空と暗いがきらめく海において、白い帆は柔らかに吹く貿易風の穏やかな大気に満たされて、凪となり、波打つ海面は鏡の磨かれたようであり、そして折々の帆のはためきを除けば全てが全く静寂であるような時である。

一度は、スコールの弓形の立ち上がり、近づきつつある猛威、あるいは強い疾風と山のような波といったものを見ておいても良いだろう。だが私は自分の想像においては、完全に発達した嵐においてなんらかのより壮大で、より恐ろしいことを思い描いていたということを打ち明けておく。もっと素晴らしい光景のほうはバン・デ・ベルデ[原文"Vandervelde"]のカンバス上にあるし、さらには、岸において、揺れる木々、鳥達の乱れた飛び交い、暗い影と明るい稲妻、強烈に押し進む急流が解き放たれた要素の闘争を宣言し切るのを見る方が限りないほどずっと良いものではある。

海においては、アホウドリやウミツバメが、嵐をその本領とするかのように飛び、水面はそれが常の仕事でもあるように持ち上がりまた落ち込み、船とそこに生活する者だけが怒りの対象であるように思われるのだ。見捨てられて幾多の風雨に耐えた海岸においては情景は実に別物である。だがその時の感覚は野生の喜びというよりも恐怖の様相を帯びるものである。
[その3に続く]


[日記原文] [September 25th; the second part]

Our voyage having come to an end, I will take a short retrospect of the advantages and disadvantages the pain & pleasure of our five years' wandering. If a person should ask my advice before undertaking a long voyage, my answer would depend upon his possessing a decided taste for some branch of knowledge, which could by such means be acquired. No doubt it is a high satisfaction to behold various countries, and the many races of Mankind, but the pleasures gained at the time do not counterbalance the evils.
It is necessary to look forward to a harvest, however distant it may be, when some fruit will be reaped, some good effected.

Many of the losses which must be experienced are obvious, such as that of the society of all old friends, and of the sight of those places with which every dearest remembrance is so intimately connected. These losses however, are at the time partly relieved by the exhaustless delight of anticipating the long wished for day of return. If, as poets say, life is a dream, I am sure in a long voyage these are the visions which best pass away the long night. Other losses, although not at first felt, after a period tell heavily, those are the want of room, of seclusion, of rest — the jading feeling of constant hurry — the privation of small luxuries, the comforts of civilization, domestic society, and lastly even of music & the other pleasures of imagination.

When such trifles are mentioned, it is evident that the real grievances (excepting from accidents) of a sea life are at an end.
The short space of sixty years has made a most astonishing difference in the facility of distant navigation. Even in the time of Cook, a man who left his comfortable fire side for such expeditions, did undergo privations: a yatch with every luxury of life might now circumnavigate the globe. Besides the vast improvements in ships & naval resources, the whole Western shores of America are thrown open; and Australia is become a metropolis of a rising continent. How different are the circumstances to a man shipwrecked at the present day in the Pacific, to what they would have been in the time of Cook: since his voyage a hemisphere has been added to the civilized world.

If a person suffers much from sea sickness, let him weigh it heavily in the balance: I speak from experience, it is no trifling evil cured in a week.1 If he takes pleasure in naval tactics, it will afford him full scope for his taste; but even the greater number of sailors, as it appears to me, have little real liking for the sea itself;2 It must be borne in mind how large a proportion of the time during a long voyage is spent on the water, as compared to the days in harbour.3
And what are the boasted glories of the illimitable ocean? A tedious waste, a desert of water as the Arabian calls it. No doubt there are some delightful scenes; a moonlight night, with the clear heavens, the dark glittering sea, the white sails filled by the soft air of a gently blowing trade wind, a dead calm, the heaving surface polished like a mirror, and all quite still excepting the occasional flapping of the sails.
It is well once to behold a squall, with its rising arch, and coming fury, or the heavy gale and mountainous waves. I confess however my imagination had painted something more grand, more terrific in the full grown storm. It is a finer sight on the canvass of Vandervelde, and infinitely finer when beheld on shore, when the waving trees, the wild flight of the birds, the dark shadows & bright lights, the rushing torrents all proclaim the strife of the unloosed elements.
At sea, the albatross and petrel fly as if the storm was their proper sphere, the water rises and sinks as if performing its usual task, the ship alone and its inhabitants seem the object of wrath. On a forlorn & weather-beaten coast the scene is indeed different, but the feelings partake more of horror than of wild delight.
1 Followed by deleted words: 'as most people suppose. I speak from experience, as well I may, suffering now more than I did three years ago.'
2 Followed by deleted words: 'if not compelled to it by necessity, visions of glory when very young & the force of habit when old, are the sole bonds of attraction.'


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C.ダーウィンの日記(1836年9月24日と25日) [ダーウィンが行く(後半)]


 
C.ダーウィンの日記(大西洋; イングランドに帰るコースに進む)

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サン・ミゲル島


[日記訳]

(1836年9月)24日

午前中にサン・ミゲル島[注]の西端の沖合に着いた。手紙を受け取るためにここの首府に寄ることになっていたのである。逆風のため丸1日停められた。
[注] 原文"St Michaels"。アゾレス諸島の島。下の地図 および 冒頭画像 参照。


25日[イングランド・ファルマス到着の7日前]

ついで翌朝、私たちは町の沖合に着き、一艘ボートが岸に送られた。サン・ミゲルの島はかなり大きくてテルセイラの3倍の人口を擁してより広範な交易を営んでいる。主な輸出品は果物で、そのために船団が毎年やって来るのである。いく百隻もの船がオレンジを積むのだがどの島にもこの木はそんなに多数は見えない。だれもここに英国に輸出される無数のオレンジのための大市場があるとは想像もしないことであろう。サン・ミゲルはテルセイラとすっかり同様の開けて半ば緑色の耕作された斑模様の外見を持っている。町はよりまばらである。そこもそして地帯全体の家屋や教会は漆喰塗りで遠くからはこざっぱりとしてきれいに見える。町の後背地はテルセイラほどは高くないが、それでもかなり高まっている。そこは小さな乳房状の丘が密にちりばめられているというよりむしろそれで出来ている。そのそれぞれがある時期には活火山であったのだ。

一時間もした頃、ボートが戻って来たが手紙は積んでなかった。その後、陸地からうまく沖に出て、私たちは、ありがたいことに[thanks to God]イングランドに直接向かうコースに舵を取ったのである。

[地図] サン・ミゲル島..

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[天候: Capt.R.FitzRoy]
1836年9月24日午前10時の天候:
南南東の風、風力4、青空、雲、気温摂氏20.6度、水温摂氏21.4度。


[日記原文]
24th
In the morning, we were off the Western end of St Michaels; to the capital of which we were bound in quest of letters. A contrary wind detained us the whole day,

25th [the first part]
but by the following morning, we were off the city, & a boat was sent on shore.— The Isld of St Michaels is considerably larger & three times more populous & enjoys a more extensive trade than Terceira. — The chief export is the fruit, for which a fleet of vessels annually arrives. Although several hundred vessels are loaded with oranges, these trees on neither island appear in any great numbers. No one would guess that this was the great market for the numberless oranges imported into England. St Michaels has much the same open, semi-green, cultivated patchwork appearance as Terceira. The town is more scatted; the houses & churches there & throughout the country are white washed & look from a distance neat and pretty. The land behind the town is less elevated than at Terceira, but yet rises considerably; it is thickly studded or rather made up of small mammiformed hills, each of which has sometime been an active Volcano. — In an hours time the boat returned without any letters, and then getting a good offing from the land, we steered, thanks to God, a direct course for England.—

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冒頭画像出典: http://www.panoramio.com/photo/1071953



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C.ダーウィンの日記(1836年9月22日と23日) [ダーウィンが行く(後半)]

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テルセイラ中央部


C.ダーウィンの日記(大西洋; アゾレス諸島、テルセイラ島)

[日記訳]

(1836年9月)22日[イングランド・ファルマス到着の10日前]

この日の大部分は船に留まっていた。

23日

次の日、朝早くこの島の北東にあるプラヤの町[注]を訪ねるために出発した。距離は大体15マイルである。道は途中の大部分海岸から大きく離れることはなかった。この地帯は全て耕作されていて家屋や小さな村が散在している。いくつもの場所で、牛車の長きにわたる通行により、部分部分で道の一部をなしている固くなった溶岩に12インチもの深さのわだちが擦り込まれていることに気付いた。こうした状況は古代のポンペイの舗道において驚きのもとに、現在のイタリアの町ではどこでもこういうようにはなっていないこととして注目されていた事である。ここでは車輪の輪金には異様に大きな鉄のこぶが付けられているのであり、多分古代ローマの車輪はこのようになっていたのであろう。 この地は午前中の騎乗の間は興味深いものではなかったのだが、楽しい農民が心地良く常に見えていることはその例外である。収穫は最近終了していて、家屋の近くにはトウモロコシの立派な黄色い頭端部が乾燥のために束ねられ、その大きな束はポプラの木の幹ほどもあった。こうしたのは遠くから見ると、肥沃の紋章そのものとしてのなんらかの美しい果実で垂れ下がっているように見えたものである。
[注] Praia Da Vitoria。下の地図参照。

一カ所、道が幅広い溶岩流を横切っていた。その溶岩流は固く黒い表面を持っている事からして比較的最近のものであることが分かった。実際にはどの火口からそれが流れ出したかも分かったことであろう。 勤勉な住民はこの余地をブドウ畑に変えていた。この目的のためには遊離した砕片を取りのけてそれらを幾多の壁として積み上げて2~3平方ヤードの小さな地面の区画にして囲う必要があったのである。かくてこの土地は黒い線の網の目で覆われているのである[注]
[注] 下の参考画像参照。

プラヤの町は静かで孤独な小さな場所である。だいぶ以前に大きな町が地震によって打ちのめされたのである。土地が沈下したということが云われていて、女子修道院の壁が今や波に洗われていることがひとつの証拠とされている。そうしたことはありそうではあるが、証拠としては説得的でない。

別の道で帰途に就いた。はじめは北の岸に沿うのであるが後に島の中央部を横切るのである。この北東端は特に良く耕作されていて多くの立派なコムギを産する。正方形の開けた畑や漆喰塗りの教会を持つ小さな村は高みから見るとイングランド中央部のそれほど景色の良くはない所に似た様相を持っていた。

やがて雲の領域に到達したのだが、その雲は私たちの滞在全体を通してかなり低い所に懸り山々の頂上を隠していた。2時間かけて中央部の高い所を横切ったのだが、そこは人が住んでおらずうら寂びれた外見を持っている。雲中から町まで降りると、[船では測量上の]観測が出来たのでこの夕方には外洋に出るとの嬉しい知らせを私は聞いた。

この錨地[注]は南方の大洋のうねりにまともにさらされているので、一年の今というこの荒れた時期にはとても不快でありまた安全とは到底云えない。
[注] テルセイラ島南部のアングラ泊地。

[地図] Praia Da Vitoria..

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[参考画像] 現在のテルセイラ島の道のひとつ(両側に岩の砕片が積み上げられている)..
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画像出典: http://www.panoramio.com/photo/19964162

[天候: Capt.R.FitzRoy]
1836年9月23日午前10時の天候:
変わりやすい風、風力1、青空、雲、気温摂氏21.1度、水温摂氏21.1度。

[日記原文]
22nd
I staid the greater part of the day on board.1.

1 The entry for this day has been marked for deletion.

23rd
Another day I set out early in the morning to visit the town of Praya seated on the NE and of the island. — The distance is about fifteen miles; the road ran the great part of the way not far from the coast. The country is all cultivated & scattered with houses & small villages. I noticed in several places, from the long traffic of the bullock waggons, that the solid lava, which formed in parts the road, was worn into ruts of the depth of twelve inches. This circumstance has been noticed with surprise, in the ancient pavement of Pompeii, as not occurring in any of the present towns of Italy. At this place the wheels have a tire surmounted by singularly large iron knobs, perhaps the old Roman wheels were thus furnished. The country during our morning's ride, was not interesting, excepting always the pleasant sight of a happy peasantry. The harvest was lately over, & near to the houses the fine yellow heads of Indian corn, were bound, for the sake of drying, in large bundles to the stems of the poplar trees. These seen from a distance, appeared weighed down by some beautiful fruit,—the very emblem of fertility.—

One part of the road crossed a broad stream of lava, which from its rocky & black surface, showed itself to be of comparatively recent origin; indeed the crater whence it had flowed could be distinguished. The industrious inhabitants, have turned this space into vineyards, but for this purpose it was necessary to clear away the loose fragments & pile them into a multitude of walls, which enclosed little patches of ground a few yards square; thus covering the country with a network of black lines.—

The town of Praya is a quiet forlorn little place; Many years since a large city was here overwhelmed by an earthquake. It is asserted the land subsided, and a wall of a convent now bathed by the sea is shown as a proof: the fact is probable, but the proof not convincing.

I returned home by another road, which first leads along the Northern shore, & then crosses the central part of the Island.— This North Eastern extremity is particularly well cultivated, & produces a large quantity of fine wheat. The square, open fields, & small villages with white washed churches, gave to the view as seen from the heights, an aspect resembling the less picturesque parts of central England. — We soon reached the region of clouds, which during our whole visit have hung very low & concealed the tops of the mountains. For a couple of hours we crossed the elevated central part, which is not inhabited & bears a desolate appearance. When we descended from the clouds to the city, I heard the good news that observations had been obtained, & that we should go to sea the same evening.

The anchorage is exposed to the whole swell of the Southern ocean, & hence during the present boisterous time of year is very disagreeable & far from safe:—


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[特に http://saltyvoyage.blog.so-net.ne.jp/1836-01-12 以降]
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冒頭画像出典: http://www.panoramio.com/photo/8487956




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C.ダーウィンの日記(1836年9月21日) [ダーウィンが行く(後半)]

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テルセイラ島中央部の噴気口のひとつ


C.ダーウィンの日記(大西洋; アゾレス諸島、テルセイラ)

[日記訳]

(1836年9月)21日
[英国ファルマス到着の11日前]

翌日、領事が親切に私に彼の馬を貸してくれて、島の中央の活動中の火口だとされている地点まで行く案内人を用意してくれた。両側の石壁が高い深く刻まれた小道を登って行き、はじめの3マイルの間私たちは多くの家屋と庭を通った。その後かなりでこぼこした平野部に入った。そこは比較的最近の玄武岩質溶岩の流れの丘から出来ていた。岩のある部分は約3フィート[0.9144m]の丈の濃い芝で、そしてまた他の部分はヒース、シダ、それから丈の低い牧草で覆われていた。いくつかの砕け落ちた古い石壁があってウェールズの山々との類似を完璧なものとしていた。 さらには、英国での昔なじみの昆虫や鳥たち、つまりムクドリ、ハクセキレイ、ズアオアトリやクロウタドリを私は見出した。

ここの高い中央部には家屋はなく、地面はウシやヤギの放牧のためだけに使用されている。どちらの側面にも比較的古い溶岩の稜線と様々な大きさの錐体があって、それらは火口形の頂上をまだ部分的に保持していて、壊れ落ちた所には製鉄所からのものと同じような燃え殻の積み重なりが見えていた。

いわゆる火口に到着してみると、私にはそれがちょっとした陥没、あるいはむしろ高地に隣接した出口のない短い谷であることが分かった。底部はいくつもの大きなひび割れが横切っていてそこから、ほぼ1ダースの地点であるが、蒸気の小さな噴出が出ていて、蒸気機関のボイラーのひび割れからのようになっていた。不規則な開口部近くの蒸気は手をかざすには熱すぎる。ほんのわずかの臭気しかないのだが、鉄で出来ているもの全て黒くなるのであり、また皮膚にたいしては特異な刺激があることからすると、この蒸気は混じりけのないものではあり得ず、私が思うにはこれはいくらかの塩酸の気体を含んでいるのであろう。 周りの粗面岩状の溶岩に及ぼすその効果は奇妙なもので、しっかりとした石が全体に純粋な純白の陶土に変えられるか、あるいは一種の明るい赤ないしは2色で大理石模様になっている。蒸気は湿って熱い粘土を通して噴き出しているのである。この現象が長年このように続いて来ている。かつて裂け目から炎が出たと云われている。雨の間、各堤からの水がこれらの裂け目に流れ入るに違いなく、まさしくこの水がなんらかの熱せられた地中の溶岩の近くに滴り落ちることによってこの現象が起きるということはありそうな事である。

この島全体で地中の力が昨年は常ならず活動的であって、アングラの町からさほど遠くない海に突き出している険しい崖から数日間蒸気の噴出があったのである。

私はこの日の騎行を楽しんだのだが、見るに値するものをそれほど見たわけではなかった。かくも多くの立派な農夫たちに出会ったのは楽しい事であった。これらの人々ほども顔立ちが良くて陽気な表情をした一群の若い男たちを見た記憶がない。男たちや男の子たちはみんな簡素な上着とズボンを身につけて靴や靴下は履いていない。その頭は、小さな青い布で出来て赤い耳当てと縁取りのある帽子でかろうじて覆われている。これを、見知らぬ人が通るごとにもっとも丁寧なやり方で頭から取るのである。その衣服はぼろではあるが、その人格とともに非常に清潔なようである。
ほとんど全ての小屋において、訪問者は真っ白のシーツで泊まることが出来て清潔なナプキンで食事が出来るものと私は聞かされている。各人は手に大体6フィート[1.83m]の杖を持っている。各々の端に大きなナイフがくくり付けられていて、彼等はこれを恐るべき武器とする事が出来る。血色の良い肌つや、輝いた目および真っ直ぐに立った歩み、といったものは立派な農夫の概念そのものである。ブラジルのポルトガル人とのなんという相違であろうか!

この日出会った者の多くは薪とする枝を山で集める事ために従事していた。全家族が、父親から最年少の子供まで、各々が頭に薪束を載せて町に売りに行く事さえ見られたということかもしれない。その荷はとても重くて、この重労働とその衣服のぼろぼろの状態が貧困をあまりにもはっきりと物語っていた。しかし、聞かされたところでは、それは食料の不足ではなくて、すべての贅沢品の不足だということである。これはチロエでの場合と類似したことである[注]
[注] C.ダーウィンの日記の1834年7月13日付けの記事を参照..
アーカイヴ記事: http://fumisalt.blog.so-net.ne.jp/2009-03-08


そういうわけだから、全島が耕作されているわけではないのだけれど、現在では、多くがブラジルに移民して行くのである。そちらで結ばれる契約は奴隷とほとんど変わらないものなのであるが。かくも立派な人々が、食料、肉、野菜と果物の各々の品が極めて安くてとても豊富であるような豊穣の地を離れて行かざるを得ず、労働者は相対的に価値の少ない労働を見出すことになっているとは、残念なことである。

[地図] アゾレス諸島、テルセイラ島 (緑色のマップポインターはビーグル号が停泊したアングラ泊地)..

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[天候: Capt.R.FitzRoy]
1836年9月21日午前10時の天候:
変わりやすい風、風力1、全天曇り、雲、、気温摂氏22.2度。


[日記原文]
21st
The next day the Consul kindly lent me his horse & furnished me with guides to proceed to a spot, in the centre of the island, which was described as an active crater. — Ascending in deep lanes, bordered on each side by high stone walls, for the three first miles, we passed many houses and gardens. We then entered on a very irregular plain country, consisting of more recent streams of hummocky basaltic lava. The rocks are covered in some parts by a thick brushwood about three feet high, and in others by heath, fern, & short pasture: a few broken down old stone walls completed the resemblance with the mountains of Wales. I saw, moreover, some old English friends amongst the insects, and of birds, the starling, water wagtail, chaffinch and blackbird.
There are no houses in this elevated and central part, and the ground is only used for the pasture of cattle and goats. On every side, besides the ridges of more ancient lavas, there were cones of various dimensions, which yet partly retained their crater-formed summits, and where broken down showed a pile of cinders such as those from an iron foundry. —

When we reached the so called crater, I found it a slight depression, or rather a short valley abutting against a higher range, and without any exit. The bottom was traversed by several large fissures, out of which, in nearly a dozen places, small jets of steam issued, as from the cracks in the boiler of a steam engine. The steam close to the irregular orifices, is far too hot for the hand to endure it; — it has but little smell, yet from everything made of iron being blackened, and from a peculiar rough sensation communicated to the skin, the vapour cannot be pure, and I imagine it contains some muriatic add gas. — The effect on the surrounding trachytic lavas is singular, the solid stone being entirely converted either into pure, snow white, porcelain clay, or into a kind of bright red or the two colours marbled together: the steam issued through the moist and hot clay. This phenomenon has thus gone on for many years; it is said that flames once issued from the cracks. During rain, the water from each bank, must flow into these cracks; & it is probable that this same water, trickling down to the neighbourhood of some heated subterranean lava, causes this phenomenon. — Throughout the island, the powers below have been unusually active during the last year; several small earthquakes have been caused, and during a few days a jet of steam issued from a bold precipice overhanging the sea, not far from the town of Angra.

I enjoyed my day's ride, though I did not see much worth seeing: it was pleasant to meet such a number of fine peasantry; I do not recollect ever having beheld a set of handsomer young men, with more good humoured pleasant expressions.1 The men and boys are all dressed in a plain jacket & trowsers, without shoes or stockings; their heads are barely covered by a little blue cloth cap with two ears and a border of red; this they lift in the most courteous manner to each passing stranger. Their clothes although very ragged, appeared singularly clean, as well as their persons; I am told, that in almost every cottage, a visitor will sleep in snow white sheets & will dine off a clean napkin. Each man carries in his hand a walking staff about six feet high; by fixing a large knife at each extremity, they can make this into a formidable weapon. — Their ruddy complexions, bright eyes & erect gait, made them a picture of a fine peasantry: how different from the Portugeese of Brazil! —
The greater number, which we this day met, were employed in the mountains gathering sticks for fire-wood. — A whole family, from the father to the least boy, might be seen, each carrying his bundle on his head to sell in the town. Their burthens were very heavy; this hard labour & the ragged state of their clothes too plainly bespoke poverty, yet I am told, it is not the want of food, but of all luxuries, a case parallel to that of Chiloe. —

Hence, although the whole land is not cultivated, at the present time numbers emigrate to Brazil, where the contract to which they are bound, differs but little from slavery. It seems a great pity that so fine a population should be compelled [to] leave a land of plenty, where every article of food, meat, vegetables & fruit, — is exceedingly cheap & most abundant, 2 but the labourer finds his labour of proportionally little value.–

1 Followed by deleted sentence: 'A surprising number of the boys had white or lightly coloured hair, which from its strangeness to our eyes made it the more pleasing.'
2 The following page is numbered both 764 and 765.


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冒頭画像出典: http://www.panoramio.com/photo/14440018



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C.ダーウィンの日記(1836年9月20日) [ダーウィンが行く(後半)]

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テルセイラ島南部 Angra do Heroismo


C.ダーウィンの日記(大西洋; アゾレス諸島のテルセイラ島)

[日記訳]

(1836年9月)20日[英国ファルマス到着の12日前]

午前中にテルセイラ島の東端の沖に着き、正午少し過ぎにアングラの町に到着した。

この島は控えめではあるが高くそびえるところがあり、明らかに火山性起源の孤立した錐状の丘の丸みを帯びた輪郭を持っている。 ここの土地はよく耕作されていて、石の壁で区分けされている数多くの長方形の畑に分割され、水辺から中央丘陵の高みまで延びている。樹木はほとんど、あるいは全くなく、一年のこの時期には黄色の切り株畑は焼き尽くされて情景に不快な特性を与えている。小村落と単独の白しっくい塗りの家屋が至る所に散在している。

夕刻に一隊が岸に行った。町はとても清潔でこぎれいな場所であり、約10,000人の住人を擁しており、これはこの島の全人口のほぼ4分の1である。良い店はなく、時折聞こえる牛車の耐え難いきしみの音を除けばほとんど活動のしるしはない。教会はかなり立派であり、以前は相当数の女子修道院があった。だがドン・ペドロ[注]が多くを取り壊した。彼は3つの女子修道院を更地にして修道女に結婚の許可を与え、このことはかなりの老齢の者を除けば喜んで受け入れられたのである。
[注] ペドロ・デ・ソウザ・ホルステイン(パルメラ公; 1781~1850)のことであろう。

アングラはかつてはここの群島全体の首府であったのだが、今は諸島の単に1区域だけがその支配下にあるのみでその栄光は去ってしまった。この町は強固な城とブラジル山の麓を取り囲む砲台の列によって守られている[注]。この山は傾斜した側面を持つ死火山で町を見下ろしている。テルセイラはドン・ペドロ[*注]を最初に受け入れた所であり、ここを端緒として他の島を征服し、ついにはポルトガルに至ったのである。 ここ1島で400,000ドルほどもの融資を集め、その額のうち1ファージング[†注]さえも現在の正当な王族および高貴な家系への最初の支持者達には支払われていないのである。
[注] ブラジル山はテルセイラ島南部の小さな半島にある山。下の地図および参考画像参照。
[*注] 上掲の注を参照。
[†注] 最小貨幣単位。


[地図1] アゾレス諸島、テルセイラ島(アングラ泊地; 緑色のマップポインターの方)

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[地図2] ブラジル山..

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[天候: Capt.R.FitzRoy]
1836年9月20日午前10時の天候:
南西の風、風力1、青空、雲、濃い霧、気温摂氏21.7度。

[参考画像] 現在見られるブラジル山の砲台..
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画像出典: http://www.panoramio.com/photo/4370983

[日記原文]
20th
In the morning we were off the East end of the Island of Terceira, and a little after noon reached the town of Angra. The island is moderately lofty & has a rounded outline with detached conical hills evidently of volcanic origin. The land is well cultivated, & is divided into a multitude of rectangular fields by stone walls, extending from the water's edge to high upon the central hills. There are few or no trees, & the yellow stubble land at this time of year gives a burnt up and unpleasant character to the scenery.
Small hamlets & single white-washed houses are scattered in all parts.

In the evening a party went on shore; —1 We found the city a very clean & tidy little place, containing about 10,000 inhabitants, which includes nearly the fourth part of the total number on the island. There are no good shops, & little signs of activity, excepting the intolerable creaking of an occasional bullock waggon. The churches are very respectable, & there were formerly a good many convents: but Dom Pedro destroyed several; he levelled three nunneries to the ground, & gave permission to the nuns to marry, which, excepting by some of the very old ones, was gladly received. —

Angra was formerly the capital of the whole archipelago, but it has now only one division of the islands under its government, and its glory has departed. The city is defended by a strong castle & line of batteries which encircle the base of Mount Brazil, an extinct volcano with sloping sides, which overlooks the town. — Terceira was the first place that received Dom Pedro, & from this beginning he conquered the other islands & finally Portugal. A loan was scraped together in this one island of no less than 400,000 dollars, of which sum not one farthing has ever been paid to these first supporters of the present right royal & honourable family.

1 Followed by deleted words: 'to the town or rather city of Angra, the capital of the neighbouring islands'.



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[特に http://saltyvoyage.blog.so-net.ne.jp/1836-01-12 以降]
からの再録になります。ただし、訳文や付加する地図などに対して、改良を加えてます。


冒頭画像出典: http://www.panoramio.com/photo/4024797




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