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ダーウィンの日記1832年8月14日 [ダーウィンが行く]

ダーウィンの日記(モンテビデオ)

[日記仮訳]
(1832年8月)14日
フルテス氏[注]が盛大な行進で町に入り、各砦の祝砲を受けた。彼は1800人の野性味のあるガウチョ[*注]の騎兵を伴っていた。その多くはインディアン[†注]だ。それはたいへんな壮観であったと信ずる。ウマの美しさ、衣服と武器の野性味はとても興味深かった。
[注] おそらくウルグアイの最初の大統領 Fructuoso Riveraのことと思われる。彼の何度かの大統領在任期間のうちの最初は1830-34でこの日記の日付に符合する。
[*注] ガウチョとはウルグアイやアルゼンチンすなわちアンデス山脈の東側の国や地域の牧童。下の画像およびページさらに下の参考映像参照。なお、ガウチョは一般には先住民ではありません。
[†注] 原語は"Indians"で、ダーウィンは当時の通例に従ってこの語を大航海時代以前から南米に住んでいた人たちを呼ぶ場合に使っています。今では例えば"Indigenous inhabitants"つまり"先住民"というように呼ばれますが、このブログではダーウィンの使っている"Indians"の訳語としてはそのまま"インディアン"としておきます。

[画像] ガウチョ (モンテビデオで見られた当時のガウチョの服装などについての画家の書き込みがあるようですが、公表された画像は小さくて読みとりにくいです)..
gaucho.jpg
C.Martens. 1833.09.

[地図] モンテビデオ(ウルグァイ)

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[日記原文]
14th
Signor Frutez entered the Town in full parade & was saluted by the forts. — He was accompanied by 1800 wild Gaucho cavalry; many of them were Indians. — I believe it was a magnificent spectacle; the beauty of the horses, & the wildness of their dresses & arms were very curious. —

[参考映像1]"ガウチョの息子への遺産"というタイトルの歌のビデオですが、映像にはダーウィンの時代よりはずっと最近のガウチョの様子が出ています。ホセ・ララルデというアルゼンチンのソングライターのものです..


[参考映像2]


なお、次のブログ記事にガウチョ文化の一環としての音楽のうちの一曲の紹介があります..
http://kozuchi.blog.so-net.ne.jp/2007-04-01


["ダーウィンが行く"について]
このシリーズで扱っているのはダーウィンがビーグル号に乗っている時の日記です。訳文は私的な研究目的に供するだけの仮のものです。普通は全文を訳しますが日によっては原文全文と注釈または抄訳だけにとどめる場合もあります。抄訳の時はその旨を明示します。
[日記原典]
"Charles Darwin's Beagle Diary" ed. by R.D.Keynes, Cambridge U.P., 1988.

ダーウィンの日記全体の冒頭部はこのブログでは次のページにあります..
http://kozuchi.blog.so-net.ne.jp/2006-10-23

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ダーウィンの日記1832年8月13日 [ダーウィンが行く]


ダーウィンの日記(モンテビデオ)

[日記仮訳]
(1832年8月)13日
ついに、未解決ではあるが政治問題[モンテビデオにおける政治状況]と、天候とが、市外の田野の歩行を許容するほどまでになった。ウィッカム、サリヴァン、ハモンド、および私は狩猟に出かけた。獲物はそれほどなかったとしても運動することは楽しかった。
ハモンドと私は何マイルもまっすぐに、アザミで覆われた平野の方向へ歩いた。そこでダチョウ[レア]の群れを見る事を希望していたのである。私たちは1羽を遠くから見た。もし私がひとりだけでいたら、それは競走馬のように走るとても大きなシカだと言っただろう。距離が増すにつれそれは地面をかすめる大きなタカのように見えた。その動きの速さは驚くべきものだった[注]
[注]ダーウィンが野生のレアを見たのは、遠くからですが、これが最初だったと思われます。また、これは後に"ダーウィン・レア(Rhea darwinii)"と名を付けられた種とは別種の個体だと考えられます。ダーウィンが報告したあとで鳥類学者ジョン・グールドによって"ダーウィン・レア"と名付けられた種の個体の方は、この1年と5ヶ月ほど後の1834年1月始めに、パタゴニアのポート・デザイアで捕獲されています。

ボートを出すには風が強すぎたので、マウントから湾の周りを町まで歩く事に決まった。まだ遠くなのに、ウィッカムとサリバンはかなり疲れていてもうこれ以上動けないと言った。幸運にもウマに乗った男が近づいたので彼を雇い、ふたりを順番に他のウマが見つかるまで運ぶ事にした。かくして私たちは夜に町の城門[注]が閉まる前に到着したのだった。
[注]当時のモンテビデオの町が城壁に囲まれていたことがわかります。

[画像]1888年のモンテビデオの地図 (マウントはスペイン語名 el Cerro でこの西端の丘; 市街地は図に見えるように東の半島状の場所)..



[画像2]レア(Rhea americana)..
rhea.jpg
出典: encyclopaedia britannica


[参考映像]ダーウィン・レア (Rhea darwinii の父親による子育て; ダーウィンはまだこの日付ではこの種の個体を野生で見てはいません)..


[日記原文]
13th
At last the unsettled politicks[sic] & weather have permitted us to walk in the country: Wickham, Sulivan, Hammond & myself went out shooting & if our sport was not very good the exercise was most delightful. —
Hammond & myself walked in a direct line for several miles to some plains covered with thistles, where we hoped to find a flock of Ostriches. — We saw one in the distance; if I had been by myself, I should have said it was a very large deer running like a race-horse, — as the distance increased it looked more like a large hawk skimming over the ground. — the rapidity of its movements were astonishing. — As the breeze was rather too stiff for boats, it had been determined to walk from the Mount round the bay to the town. — When far distant from it, Wickham & Sullivan found themselves so tired, that they declared they could move no further. — By good luck a horseman came up, whom we hired to carry them by turns till another horse was found; & thus we arrived just before the city gates were closed for the night. —

["ダーウィンが行く"について]
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"Charles Darwin's Beagle Diary" ed. by R.D.Keynes, Cambridge U.P., 1988.

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ダーウィンの日記1832年8月10日から12日 [ダーウィンが行く]

ダーウィンの日記(モンテビデオ)

[日記仮訳]
(1832年8月)10日
一晩中何度も町でマスケット[銃]の連射が行われるのが聞こえた。私たちはみなだいぶ激しい戦闘があったに違いないと考えた。
11日
ところが今朝になって、だれひとりとして負傷した者がいないという事を聞いた。実際のところは両方の党派が互いにマスケットの射程に入る事を恐れているのである。
昨日、軍事的統治者であるラバジェハが町に入り、以前は彼のもとにいた黒人の兵士を除くみんなから快く受け入れられた。この黒人の兵士たちをその拠点から追い出すと威嚇して、入り口を支配する為に何門かの大砲を据え付けた。これに仕返しするために黒人たちが昨夜出撃してそれで射撃が起きたのであった。

この午前中に知らせが届き、昨日は一致して受け入れられたラバジェハが町から逃れざるを得なくなり、フルテス氏[注]と憲政政府が勝利を収めることは確かだという。人はヨーロッパでの流血の革命に衝撃を受ける。しかしここでのような愚にもつかない変化がいかに進行するかを見た後では、このふたつのうちどちらが恐るべきものであるかを決める事は難しい。
[注]原文で"Frutez"としてあります。これはおそらくウルグアイの最初の大統領 Fructuoso Rivera(何度かの大統領在任のうちの最初は1830-34) のことだと思われます。

ここのところの天候はじめじめしていて極端なまでに不快である。

日曜日12日
先日の夜のこぜりあいにおける市民警備隊の全くの驚愕ぶりはみんなで可笑しいと思った。大きな体躯の者が暗闇で気付かれないように彼等の白いたすきがけのベルトをすぐに投げ捨て、そして衝動的に通りをかけ下ったのであった。もしそれが命令に従ったものだったとしたらずいぶんと堂々としたものであったろうに。
夕刻、パリー氏[注]と食事をした。
[注] 7月26日付けの日記記事にも触れられていたモンテビデオの指導的商人で英国人。

[天候]
1832年8月11日正午の天候:
東の風、風力2、雲、曇り、あられ。

[画像]海から見るモンテビデオ..
montevideo.jpg
C.Martens. 1833.8.

[地図] モンテビデオ(ウルグァイ)

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[日記原文]
10th
During the whole of the night there have been several vollies of musketry fired in the city, & we all thought there must have been some heavy fighting:
11th
but this morning we hear not even one has been wounded. — in fact both parties are afraid of coming within reach of musket range of each other. Yesterday Lavalleja, the military governor, entered the town & was well received, by everybody excepting his former black troops. These he threatened to expel from the citadel & planted some guns to command the gate. — To revenge this the Blacks last night made a sally, & hence arose the firing. —
This morning the news comes that Lavelleja who was unanimously but yesterday received, has been obliged to fly the city, & that it is now certain that Signor Frutez & the constitutional government will gain the day. — One is shocked at the bloody revolutions in Europe, but after seeing to what an extent such imbecile changes can proceed, it is hard to determine which of the two is most to be dreaded. The weather for these last days has been wet & uncomfortable in the extreme.
Sunday 12th
The utter consternation of the civic guard during the other nights skirmish has given general amusement. — Large bodies immediately threw away their white cross belts that they might not be recognised in the dark: & the impetuosity with which they rushed down the streets, if it could have been directed to a charge, would have been most imposing. — In evening dined with Mr Parry.

["ダーウィンが行く"について]
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ダーウィンの日記1832年8月9日 [ダーウィンが行く]

ダーウィンの日記(モンテビデオ)

[日記仮訳]
(1832年8月)9日

商船が1隻、その錨地からしばらく流されてしまった。艦長が昼なかばにその船に行ってみたところ、その船がわずか30ファゾム[54.9m]の綱[cable]しか出していないことが分かった(こちらは70[ファゾム]にしている)。綱の長いことは大きな安全性につながる。というのはそれは突然の緊張を和らげるからで、その摩擦は錨に対してそれほどの緊張を与えない。すべての商船がかくも無頓着であることはまったく不思議なことだ。昨日はトゲルンマストを下ろした船はほとんどなかった[注]。何年か前のことだが14隻の船がブエノス・アイレスで岸に乗り上げて失われた事がある。そのうちわずか3隻は何らかの用心をしていたが、十分な警戒ということまではしていなかったのである。
[注]前日8日の夕刻に強風が吹いた時の事。

今日、艦長は町に行き、混乱は暴力にまで増大しているという知らせを持ち帰った。いくつかこぜりあいが黒人の兵士との間にあり、新しい党派が政府の首長へ台頭しつつある。モンテビデオの唾棄すべき状態においては事実上大体5つの党派が優位を争っている。これは人をして、独裁制というものが、そんな統制の効かない無政府状態よりも良くないことなのかどうかを自問せしめる[注]
[注]これはプラトンに端を発する問題意識に近いものがあるか。

天候はいまだじめじめしていて荒れている。岸に行く事を妨げるふたつの異なった理由が同時に来ているということは、粗末ながらも慰めになる。

[画像] (船とモンテビデオ - 拡大出来ます)..
r.jpg
(C.Martens: 1833.12.)

[天候]
1832年8月9日正午の天候:
東の風、風力5、暗い、曇り、雨、気温摂氏12.8度。

[日記原文]
9th
A merchant ship has drifted some way from her anchorage. — The Captain in middle of day went to her & found that at first she had only veered out 30 fathoms of cable. — (whilst we were riding with 70). A length of cable is a great security, as it takes away any sudden stress & by its friction does not strain so much on the anchor. — It is quite curious, how negligent all merchant vessels are. — Yesterday very few struck Top-gallant masts. — Some years ago 14 vessels at Buenos Ayres went on shore & were lost, out of which only three had taken any & none sufficient precautions: —

The Captain managed to go to the town to day, & brought back news that the disturbances increase in violence. — There has been some skirmishing with the black-troops, & a fresh party seems to have risen for the head of government. In the paltry state of Monte Video, there are actually about 5 contending parties for supremacy. — It makes one ask oneself whether Despotism is not better than such uncontrolled anarchy. — The weather yet continues wet & boisterous: it is a consolation, although a poor one, that the two distinct causes, which prevent us from going ashore, should come together. —

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ダーウィンの日記1832年8月7日と8日 [ダーウィンが行く]

ダーウィンの日記(モンテビデオ)

[日記仮訳]
(1832年8月)7日
嘆かわしいことに、ここの田舎地帯を歩くことは賢明とは見なされない。そういうことだからモンテビデオの汚い町に行かざるを得なかったというわけだ[注]
[注] 思うに、これはアイロニーで、ふつか前の8月5日に自分が(軍事行動で)モンテビデオの砦に行ったことを言っているのでしょう。

食事の後にラット島へ採集に出かけた。

8日
かなりの風と雨があった。夕方に気圧計が下がったので、すぐに艦長はトップマストを下ろし追加的な錨を打つことを決定した。日没時には強風が吹いたが、3重の錨により、檣頭にはなんの損害もなく、風が索具をヒューヒュー鳴らしている時も私たちは心地よく浮かんでいた。

[画像] モンテビデオの通り..
10r.jpg
C.Martens, 1833.8.


[画像] モンテビデオ遠景 (モンテビデオで政変が起こりつつあるためダーウィンはまだこの素描が描かれた地帯のような所へ行けない)..
11r.jpg
C.Martens, 1833.8.

[天候]
1832年8月8日正午の天候(天候悪化の前):
東の風、風力6、雲、曇り、暗い、あられ、気温摂氏12.5度。

[日記原文]
7th
To my great grief it is not deemed prudent to walk in the country. — so that I was obliged to go ashore to the dirty town of M: Video. — After dinner went out collecting to Rat Island. —

8th
There has been a good deal of wind & rain. — In the evening the barometer fell, so the Captain determined immediately to strike Top-masts & let go another anchor. At sunset it blew a full gale of wind, but with our three anchors & no hamper aloft, we snugly rode whilst the breeze heavily whistled through the rigging. —

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ダーウィンの日記1832年8月6日 [ダーウィンが行く]

ダーウィンの日記(モンテビデオ)

[日記仮訳]
(1832年8月)6日
ボートが帰って来た。 町での事態の方は今やより決定的に党派心があらわになっているし、また武装した市民の数が2倍にされることにより黒人の兵力の拠点が包囲されたということで、フィッツロイ艦長は自分の方では撤兵して良いと見なした。かなり近い将来ふたつの敵対する側が遭遇するということはありそうである。もしそのような状況になったとすれば、フィッツロイ艦長は中心部の砦にいたわけだから、中立的立場を守ることはかなり困難になってしまっていただろう。

この種の仕事は興奮を伴うものであるから確かに気分の高揚というものがあり、そのことはもっとも危険な攻撃に際してさえ水兵が持つ向こう見ずな陽気さを説明するにかなり十分である。しかし、光陰矢の如しであるから、意味のない示威行進に時間を浪費するのは害悪である。

[画像: 拡大出来ます] モンテビデオ 湾の外から"マウント(el Cerro)"と呼ばれる丘と(旧)市街..
cc.jpg
C.Martens筆(1833.8)

[地図]モンテビデオの位置..

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[日記原文]
6th
The boats have returned. — Affairs in the City now more decidedly show a party spirit, & as the black troops are enclosed in the citadel by double the number of armed citizens, Capt FitzRoy deemed it advisable to withdraw his force. — It is probable in a very short time the two adverse sides will come to an encounter: under such circumstances, Capt FitzRoy being in possession of the central fort, would have found it very difficult to have preserved his character of neutrality. - There certainly is a great deal of pleasure in the excitement of this sort of work. — quite sufficient to explain the reckless gayety with which sailors undertake even the most hazardous attacks. — Yet as time flies, it is an evil to waste so much in empty parade. —

["ダーウィンが行く"について]
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ダーウィンの日記1832年8月4日と5日 [ダーウィンが行く]

ダーウィンの日記(モンテビデオ)

[日記仮訳]
(1832年8月)4日
錨地を変えてより港の中の方に進んだ。商船たちの間に優れた停泊地を見つけた。
食事の後、ウィッカム[ビーグル号の副長]とともにラット島に行き、いくらかの動物を採集した。

夕刻における長い薄明はとても心地よい。西空の紫色の雲が次第に夜の鉛色に移り変ってゆくのを見るのは全く新しい体験だ。昼夜平分の地域ではほとんどそれを誇示できないものだ。そしてヨーロッパ人の目からはすっかり見失われているものだ。

日曜日 5日
今日はビーグル号の歴史において波乱に富む一日だった。 午前10時に今の軍事政府の公使が船に来て、ある黒人の一隊による深刻な反乱に対抗するのを助けて欲しいと要請した。 フィッツロイ艦長は、それが党派性の事柄であるのか、それとも住民が実際にその家屋が略奪されて危険にさらされているのかどうかを確認するために直ちに岸に向かった。警察の長(Damas[sic])は[以前の憲政政権と今の軍事政権との]両方の政府において権力を保持しており、全く中立であると考えられているのだが、打診に対する彼の意見は、こちらの兵力を上陸させればそれはこの国家に対し貢献する事になるだろう、とのことだった。

これが岸で進行している間に、アメリカ人が彼等のボートで上陸し税関を占拠してしまった。 すぐに艦長は突堤に至り、こちらのボートを起動して人員を乗せるように信号を送って来た。ほんのわずかの時間のうちにヨール、カッター、ホウェール・ボートおよびギグ[注]が準備され、マスケット[銃]、カットラス[舶刀]およびピストルで厳重に武装した52名[*注]の人員を乗せた。
[注] これらはすべて積んでいるボートの種類名。
[*注] 下に参考として揚げたフィッツロイ艦長の『航海記』では人数が50名となっています。思うに、これは正規の乗組員だけでの数なのかそれとも非正規の人員(ダーウィンも定員外で航海に参加)をも含めた数なのかということから来る相違かもしれません。

桟橋でしばらく待った後、デュマス氏[注]が到着し、私たちは政府の置かれている中心部の砦に行進した。この間に反乱者たちはいくつかの通りを押さえるために大砲を据え付けていたのだが、それ以外の点では静かだった。彼等は先に監獄を破って開き囚人たちを武装させていた。占拠の主な理由は全ての弾薬のある拠点を所有するということだった。
[注]モンテビデオの警察の長。

全ての混乱は前の憲政政府の策謀によるものではないかと疑われる。だが、当地の政治は極めて理解しがたい。兵士の利害と現政府のそれとは同一だということは常に言われる。今の場合は逆だと言えそうだ。フィッツロイ艦長はこれらに一切関わるわけではなく、ただ私的財産が攻撃されない事を見守るために留まるのだろう。もし国民部隊がひどく腰抜けでなかったなら彼等は拠点を直ちに占領して任務を終わらせてしまうことができただろう。そうするかわりに彼等はサンタ・ルシアの要塞で自分自身を守る事を好むわけである。

色々な党派が事柄を交渉しようとしている間、私たちは自分の持ち場にいて中庭でビーフ・ステーキを料理して楽しんだのであった。
日没の時、ボートが船に送られたが、1艘は夜に野営する人員のために暖かい衣服を積んで[岸に]戻った。ひどい頭痛があったので私も船に来て留まった。
チャッファー氏[航海長]の指揮のもとに船に残っていたわずかの者たちは全乗組員分の仕事をするために大忙しだった。彼等は[部外者の]乗船防止用の網を吊り上げておき、銃に弾を込めて照準を合わせ、そして戦闘準備をしていたのである。
今は夜であるが、万一ビーグル号が攻撃されても最良の防御が出来るよう私たちには高度の準備が出来ている。
弾薬を得るのが唯一の可能な[反乱の]動機だろう。


[参考]
この8月5日の事態に関するフィッツロイ艦長の言及は次のとおりです..

"ドルイド号が水平線下に姿を消してほとんど間を置かず、モンテビデオの首長と港の長がビーグル号に来て、町における秩序を保持し、いくらかの反乱黒人兵士の攻撃を防ぐための助力を要請した。私はまた総領事から英国の住民の防御を私の力によって提供するように要求された。そして彼等の財産だけでなく生命が騒然とした反乱者によって脅かされていて、その反乱者が町に残っているわずかの規律正しい兵士を上回っているということを理解し、私は50名の十分に武装した乗組員とともに上陸し、そして主要な要塞を守備しつつ陸に留まり反乱者を抑制した。それはより多くの兵士が近隣地から来るまでであった。近隣地からの兵士は彼等を包囲し屈従させた。ビーグル号の乗組員は陸に24時間を越えては留まらなかったし、いかなる形でも行動するようには動員されなかった。しかし私は生命と財産を脅かされていた当人たちから、水兵たちの存在が確かに流血を抑止したのだと聞かされた。"
FitzRoy, R.,"Narrative of the surveying voyages of His Majesty's Ships Adventure and Beagle between the years 1826 and 1836, describing their examination of the southern shores of South America, and the Beagle's circumnavigation of the globe. Proceedings of the second expedition, 1831-36, under the command of Captain Robert Fitz-Roy", 1839, London: Henry Colburn. p.95.

[参考画像: 拡大出来ます]ビーグル号の停泊地から見たモンテビデオ(1833.12.04)..
c.jpg
C.Martens筆。右ページ部分にモンテビデオの市街地。

[地図]現在のモンテビデオの旧市街付近 旧市街はモンテビデオの湾に西南西に突き出した半島状の一帯のみで当時は城壁で囲まれていました..

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[日記原文]
4th
We altered. our anchorage, & stood much closer in. —we found an excellent berth amongst the merchant-ships. — After dinner went with Wickham to Rat island & collected some animals. — In the evenings the greater length of twilight is very pleasant: it is quite a new phenomenon to watch the purple clouds of the Western sky gradually to fade into the leaden hue of night. — This is a beauty of which the equinoctial regions can seldom boast. — And to an Europeans eyes it is a great loss. —

[日記原文]
Sunday 5th
This has been an eventful day in the history of the Beagle. — At 10 oclock in the morning the Minister for the present military government came on board & begged for assistance against a serious insurrection of some black troops. — Cap FitzRoy immediately went to ashore to ascertain whether it was a party affair, or that the inhabitants were really in danger of having their houses ransacked. — The head of the Police (Damas[sic]) has continued in power through both governments, & is considered as entirely neutral; being applied to, he gave it as his opinion that it would be doing a service to the state to land, our force. —
Whilst this was going on ashore. the Americans landed their boats & occupied the Custom house. — Immediately the Captain arrived at the mole, he made us the signal to hoist out & man our boats. In a very few minutes, the Yawl, Cutter, Whaleboat & Gig were ready with 52 men heavily armed with Muskets Cutlasses, & Pistols. After waiting some time on the pier Signor Dumas arrived & we marched to a central fort, the seat of Government. During this time the insurgents had planted artillery to command some of the streets, but otherwise remained quiet. They had previously broken open the Prison & armed the prisoners. — The chief cause of apprehension was owing to their being in possession of the citadel which contains all the ammunition. — It is suspected that all this disturbance is owing to the manuivering of the former constitutional government. — But the politicks[sic] of the place are quite unintelligible: it has always been said that the interests of the soldiers & the present government are identical. — & now it would seem to be the reverse. — Capt. FitzRoy would have nothing to do with all this: he would only remain to see that private property was not attacked. — If the National band were not rank cowards, they might at once seize the citadel & finish the business; instead of this, they prefer protecting themselves in a the fortress of St. Lucia. — Whilst the different parties were trying to negociate matters. — we remained at our station. & amused ourselves by cooking beef-steaks in the Court-yard. — At sun-set the boats were sent on board & one returned with warm clothing for the men to bivouac during the night. — As I had a bad headache, I also came & remained on board. — The few left in the Ship, under the command of Mr Chaffers, have been the most busily engaged of the whole crew. — They have triced up the Boarding netting, loaded & pointed the guns. — & cleared for action. — We are now at night in a high state of preparation so as to make the best defence possible, if the Beagle should be attacked. — To obtain ammunition could be the only possible motive.

["ダーウィンが行く"について]
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