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"君子危うきに近づかず"? [あれこれ]

"君子危うきに近づかず"とは..

表題に掲げた格言、"君子危うきに近づかず" という形での文章は基本的に出典不明で、誰が最初にこういう言い方をしたのかがよく分かっていないようなんですね。一説では仏典ではないかというのを見た事がありますが、確認はとれていません。

検索してみますと、この句に近いものは儒学の古い書籍である「春秋公羊伝(しゅんじゅうくようでん)」にあると書いてあったりします。それで、確認をとるために春秋公羊伝をひっぱりだしてその埃を払って開いてみました。すると、"君子危うきに.."の形の文章は見当たらず、かわりに㐮公二十九年の記事に次のような記述があります..

"君子不近刑人"

"刑人"とは簡単には刑罰を受けた人という意味になるようですが、西暦で言えば紀元前544年の当時では身体刑が普通に行われていて、現在のように更生を旨とするのではなく、肉体的な苦痛を与えてかつまた犯罪者(どれほど公正な基準で判定されたかは大いに疑問)であることをはっきり分かるようにしたものだったと言います。また、戦争での俘虜に身体刑を加えたものをもまた"刑人"としたようです。
そのような背景(現在の考え方と異なる)で受け取らないといけませんが、"君子不近刑人"とは文字通りには君子は刑罰を受けた人に近づかないものだということになります。その具体的意味を以下にはっきりさせなければなりません..

春秋公羊伝とは春秋という魯の国(山東半島の西側)の極めて簡潔な古い年代記にたいして、儒学のある特定の立場で注釈をつけたものです。漢の時代になりますと、これをもとにした公羊学という儒学の流派が発生する事になり、その代表格として董仲舒という儒者が有名です。

さて、春秋のなかの紀元前544年(㐮公二十九年)の記事として、

呉の国の君主である餘祭という人を門衛が弑(しい)した

というのがあるわけです。それで、公羊伝ではこれに注釈をつけていて、"刑人を門衛にしてはいけない、君子は刑人には近寄らないものだ。刑人に近づくのは向こう見ずなことだ" という意味のことを書いていて、これが上述の"君子不近刑人"の出てくる文脈なんですね。

公羊伝のほうではこれぐらいしか書いてないのですが、おなじく春秋に対して別の観点から注釈をつけた"春秋左氏伝"の対応する部分を見てみますと、

"呉の人は越に攻め込み、俘虜を獲得すると、[あしきりの刑に処して]門衛とし、舟を看守させていた。呉子餘祭(よさい)が舟の視察に来ると、その門衛は刀でこれを弑した。"("春秋左氏伝(中)"、小倉芳彦訳、岩波文庫、p.362)

これを見ると、刑人とはいっても身体刑を受けた戦争捕虜だったわけで、(おそらく)自らの責任で身体刑を与えた戦争捕虜を門衛としていたということですから、随分と大胆だったというか、あるいは戦争の敵国の捕虜を甘くみていたというか、判断がまずかったのだろうと考えられます。

というわけで、"君子危うきに近寄づかず"はどうやら"君子不近刑人"というのがそのもとの形なのかと思われます。

なお、"君子不近刑人"といっても、ここでの"刑人"とは古代の身体刑を受けた戦争捕虜のことですから、現代的意味での刑罰を受けた人のことを意味してはいないということははっきりさせておかなければなりません。時代が異なれば、言葉の意味も変わるわけですから。
なお、春秋や春秋伝の時代より後の時代になりますが、漢の武帝によって宮刑に処せられて、後に史書の手本となる「史記」を完成させた司馬遷だって、言ってみれば刑人だったということになるわけで、"公羊伝"のこの言葉、あまり普遍的意味を持ちそうにはありません。


(漢字の右側に付いている記号は現在主に台湾で使われている注音記号です。)


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neko-san

今、中国の歴史にはまってますので、中国ネタは
ちょっと、嬉しかったりする(笑
by neko-san (2007-05-29 10:56) 

さとふみ

時々ですが、漢文ネタでも書いてみます。
by さとふみ (2007-05-29 11:44) 

yamamoto

自分のブログに「出典不明」と書いたのですが,間違っていなかったようです.はじめてこの言葉の由来を知ることが出来ました.
http://pegasus1.blog.so-net.ne.jp/2005-11-26
by yamamoto (2009-06-30 18:01) 

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