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"酒は百薬の長"? [フード&ドリンク]

"酒は百薬の長"って..

"酒は百薬の長"とは誰が言ったのでしょうか。それは、公式の記録では王莽 (おうもう;前45年~後23年)ということになります。

王莽は(前漢 前206~前8)の元帝(在位 前49~前33)の皇后の弟の子です。当時盛んになりつつあった儒学を修めて、引き立てなどもあり、出世したのですが、「万端が術策と故意ばかりであった」("漢書")とも言われるような側面があって人気取りをしたとされています。そのようにして博した人気の中、紀元前8年にという名前で帝国を興し、その皇帝となります。ここに、高祖劉邦以来約200年間続いた(前)漢帝国は、王莽による簒奪(さんだつ)によっていったん終わることになります。

彼の事を取り上げる史書というのが(後)漢の時代に書かれた"漢書"であったということもあり、なにかと悪く言われるようですが、儒学的な側面での理想は高く、いにしえのの制度にならったものを実現しようとしたようですが、現実的ではなかったわけです。外征でも失敗を重ねたと言います。
自然災害も当時頻発し、(それゆえということもあるのか)盗賊も多く、さらには赤眉(せきび)軍という漢の治世復興を志向する農民反乱が起きるなど、混乱のなか、王莽の新は西暦紀元23年に滅亡し、後漢が成立するわけです。

さて、王莽は新という国を樹立した直後、古い理想の制度(だとされていた周制)にならって、経済改革を行なおうとします。そのなかのひとつとして、それまで、民間にまかされて統制のなかった酒の醸造売買を国家的にしようとします。

そこで、(簒奪した)帝位にある王莽は詔を発して次のように言うわけです..

"そもそも塩は食べ物の将であり、酒は百薬の長、めでたいあつまりの席になくてはならぬものである。.."(班固,"漢書・食貨志" 永田永正,梅原郁訳、東洋文庫488、平凡社、p.179)

じつは、王莽がこの詔を出す前に当時のいわば国家財政官であった魯匡(ろきょう)という人が次のような進言をしています..

"山林・沼沢・塩鉄・銭貨・布帛(等 注:このあとの細部省略)は、すべて国が統制していますが、ただ酒の醸造売買だけは統制しておりません。酒は天下の美禄であり、帝王が天下をいつくしみ、はぐくまれるためのものです。神をまつり、福を祈るにも、老人をたすけ病人を養うにも、さまざまな儀式の集りにも、酒がなくては行われません。..(途中略)..いま国中の酒をなくしてしまえば、儀式を行ったり、民を養ったりすることはできませんし、放置して何の制限も加えなければ、財貨を浪費させ、民を傷つけることになります。どうかむかしを手本にして官に酒作りをさせられますよう。"(同上、pp.178~179)

これを見ますと、どうやら、"酒は百薬の長"が明示されるのは王莽の詔のなかですが、それ以前に、国家財政官の進言の段階でそれに類した事が言われたのではないかという推測("酒は天下の美禄であり"と記録されている箇所の真意が問われる)がなされます。

いずれにしても、この"酒は百薬の長"という文章、根拠は何処にも示されていませんし、なにか経済改革の過程で役人と政治家が勝手な事を言っただけではないかという印象も受けます。実体のともなわない美辞麗句だったとも考えられますね。

"酒は百薬の長"という言葉、私は真に受けていません。せいぜい濃くはない酒(ビール)を健康を害さない程度に美味しく飲もうと思うだけです。

ここでは余談ですが、民間での酒造りということで思い出すのは、後の時代の事ですが、故郷に帰って晴耕雨読の生活を送った酒好きな詩人として有名な陶潜(淵明;365年~427年)のことです。酒好きとは言っても、彼は主に自分で耕し収穫した穀物で自分で醸造した酒を飲んでいたのですから、むやみな酔っぱらいとはわけが違うようです。


(上古殷(商)の時代に酒を温めるのに用いられた器)

(参考地図:上の写真の器は下記の博物館にあります)

泉屋(せんおく)博古館


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コメント 1

やはり酒と麺がないと始まりません(*^_^*)
by (2007-05-31 23:15) 

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