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ダーウィンの日記・前書き(1831年12月16日付) [ダーウィンが行く]

ダーウィンの日記・前書き(1831年12月16日付)

これは『日記』冒頭の前書きに当たる部分です。ここにはダーウィンがビーグル号に乗って航海に出る発端となったいきさつが書いてあり、書かれたのは(1831年の)12月16日であるとして日付が記されています。

[日記冒頭部仮訳]
私はセジウィック教授[注1]とともに北ウェールズ周辺を地質学旅行のために歩き回っていたのであったが、[1831年の]8月29日月曜日に家に帰った。姉たちが最初にヘンズロー教授[注2]とピーコック氏[注3]からの手紙が来ている事を教えてくれた。それは私が今乗っているビーグル号乗船への提案であった。私は即座に行こうと言ったのだが、翌朝になって父がこの計画全体にたいして全く反対していることが分かったので私はピーコック氏にその提案への断りの手紙を書いたのだった。
8月の最後の日に私はメイヤー[注4]に行ったのだが、すぐにそこで全てが異なった様相を呈した。その家族の全ての人々が強く私の味方であることが分かり、私はもう一度努力してみようと思った。夕方、父の反対の[理由の]表を作成し、それに対して叔父のジョス[注5]が彼の意見と回答を書いた。これをシルズベリー[注6]に翌朝送り、私は狩猟に出かけた。10時頃に叔父のジョスが私に伝言を送ってよこしたのだが、それには彼がシルズベリーに行くことにするが私も一緒に行こうとの事だった。私たちがそこ[シルズベリー]に付いてから全てが解決した。父はとても親切に同意を与えてくれたのであった。
[注1]Sedwick,Adam(1785-1873)。ケンブリッジ大学の地質学の教授。
[注2]Henslow, John Stevens(1796-1861)。ケンブリッジ大学の鉱物学、植物学の教授。
[注3]Peacock,George(1791-1858)。ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジの数学教師。
[注4]Maer;母方の叔父の家。
[注5]Josiah Wedgwood II。陶芸業者ジョサイア・ウェッジウッドの息子でC.ダーウィンの叔父。
[注6]Shrewsbury;ダーウィンの父の家の所在地。ダーウィンも住んでいた。

[画像1] 北ウェールズ..
walesN.jpg

[画像2]
sedgwick.jpg

[画像3]
henslow.jpg

[画像4]
wedgwoodII.jpg

[日記仮訳(続)]

私はこの2日間がどれだけ心配で不安なものであったかを忘れないだろう。私の父のその計画への嫌悪によって引き起こされた疑問とは独立に、心臓が私の内部で沈むかのように思えた。航海が続くであろうとその時に私が考えた日数だけでも英国を離れるための決心がなかなか出来なかった。私にとって本当に幸運なことに冒険の初めの描像はとても誇張したものであった。夕方、ピーコック氏とボーフォート大佐[注7]に手紙を書き、かなり疲れて就寝した。
[1831年9月の]2日の日朝の3時に起きて四輪馬車[Wonder coach]でブリック・ヒルまで行き、それから駅伝馬車[postchaises]に乗り換えてケンブリッジに行った。それからヘンズロー教授と相談をしつつ2日間そこにとどまった。この時点では私は全ての希望をほとんどなくしてしまっていた。それはフィッツロイ艦長からウッド氏[注8]への手紙によるもので、それは全てについてとても失望的な様相を与えるものだった。
[注7]Beaufort,Francis(1774 –1857)。英国海軍本部の水路部長。
[注8]Wood,Alexander Charles。フィッツロイ艦長の従弟(いとこ)。

5日の月曜日に私はロンドンに行き、その日ボーフォート大佐とフィッツロイ艦長に会った。後者はすぐに全ての困難を取り除いてくれ、その時から現在まで私の事全てについて親切な関心を持ってくれている。
[1831年9月の]11日の日曜日に蒸気船にてプリマスまでビーグル号を見に行った。ロンドンには18日に帰った。19日の月曜日郵便馬車でケンブリッジに行き、ヘンズローに別れを告げて水曜日の夜セント・アルバンズへ、それから四輪馬車でシルズベリーに22日木曜日に着いた。私は家を[1831年の]10月2日に出発してロンドンへ向かった。そこに長く予期せぬ遅延により24日まで留まった。その日私はデヴォンポートに到着し、この日記が始まる[注9]
(12月16日)
[注9]この前書きの文章が書かれたのは12月16日であるとして日付がついてますが、ダーウィンの日記本文は1831年10月24日月曜日から始まっています。

[地図] シルズベリー(Shrewsbury)..

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[画像5] フィッツロイ艦長(Robert FitzRoy; 航海中の1835年から大佐)
PGKING1838RF.jpg
1831年から1836年2月まで士官候補生としてビーグル号に乗っていたP.G.Kingが1838年に(おそらくオーストラリアで)描いたもの。Kingがビーグル号に乗った時は年齢14歳。

[原文]
I had been wandering about North Wales on a geological tour with Professor Sedgwick when I arrived home on Monday 29th August [1831]. My sisters first informed me of the letters from Prof: Henslow & Mr Peacock offering to me the place in the Beagle which I now fill. — I immediately said I would go; but the next morning, finding my Father so much averse to the whole plan, I wrote to Mr Peacock to refuse his offer. — On the last day of August I went to Maer, where everything soon bore a different appearance. — I found every member of the family so strongly on my side, that I determined to make another effort. — In the evening I drew up a list of my Fathers objections, to which Uncle Jos wrote his opinion & answer. — This we sent off to Shrewsbury early the next morning & I went out shooting. — About 10 oclock Uncle Jos sent me a messuage[sic], to say he intended going to Shrewsbury & offering to take me with him. — When we arrived there, all things were settled, & my Father most kindly gave his consent. —

I shall never forget what very anxious & uncomfortable days these two were.- My heart appeared to sink within me, independently of the doubts raised by my Fathers dislike to the scheme. I could scarcely make up my mind to leave England even for the time which I then thought the voyage would last. Lucky indeed it was for me that the first picture of the expedition was such an highly coloured one. —
In the evening I wrote to Mr Peacock & Capt Beaufort & went to bed very much exhausted. On the 2nd I got up at 3 oclock & went by the Wonder coach as far as Brickhill, I then proceeded by postchaises to Cambridge. I there staid two days consulting with Prof: Henslow. At this point I had nearly given up all hopes, owing to a letter from Cap. FitzRoy to Mr Wood, which threw on every thing a very discouraging appearance. On Monday 5th I went to London & that same day saw Cap. Beaufort & FitzRoy. The latter soon smoothed away all difficulties & from that time to the present has taken the kindest interest in all my affairs. — On Sunday 11th sailed by Steamer to Plymouth in order to see the Beagle. I returned to London on 18th. On Monday the 19th by mail to Cambridge, where after taking leave of Henslow on Wednesday night I got to St Albans & so by the Wonder to Shrewsbury on Thursday 22d. — I left home on October 2nd for London, where I remained after many & unexpected delays till the 24th on which day I arrived at Devonport & this journal begins. —

["ダーウィンが行く"について]
このシリーズで扱っているのはダーウィンが博物学者(naturalist;自然史学者)としてビーグル号に乗せてもらって航海に出ている時の日記です。訳文は私的な研究目的に供するだけの仮のものです。普通は全文を訳しますが日によっては原文全文と注釈または抄訳だけにとどめる場合もあります。抄訳の時はその旨を明示します。


[日記原典]
Charles Darwin's Beagle Diary ed. by R.D.Keynes, Cambridge U.P., 1988.


以下このブログで"[注]"としてある部分の注釈はブログ作成者によるものです。


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