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河口慧海 [あれこれ]

河口慧海の一側面

河口慧海(1866-1945)という人は1866年生まれで1945年に没した宗教家です。黄檗宗のお坊さんで、後に自らの純粋な宗教的信念により還俗して、釈迦の仏教にかえれということで「在家仏教」を提唱する事になるのですが、この人のことで最も注目される事は、西蔵大蔵経という経典を求めて、当時厳格な鎖国政策をとっていたチベットに2度も単身インドから乗り込んで、色々な活躍ののち、その成果とともに日本に帰還したという驚くべき探検家としての側面です。「探検家」という一語ではまたとらえきれない大人物です。

河口慧海は若い頃(20歳のとき)キリスト教を学んだりした事もあるようなのですが、いったん小学校の教員となりながら、それを辞して1890年、25歳のとき黄檗宗において得度します。その後、仏教経典の集成である一切蔵経を読破することに専念し、さらにチベットにあるとされるチベット語の一切蔵経を入手する事を決意し、1897年(明治30年)6月に神戸から船でインドに向けて出発します。7月25日にはカルカッタ、8月3日にダージリンに到着し、そこで初めてチベット語を学びます。

1年以上かけてチベット語をインドにおいて学び、1899年2月にネパールのカトマンズに着いて、当時鎖国政策をとっていたチベットへの潜入の間道を探すわけです。そして途中チベット仏教や修辞学を学びつつ、1900年7月ヒマラヤ山脈を横断してチベット領にはいります。

食料その他必要品を自分でかついで、チベット領内を西端から東に向かってずっと徒歩にて踏破して、翌年1901年3月にラサに到着します。医療を施してそこで名声を博したようで、7月20日にはダライ・ラマに謁することになります。1902年の5月13日に実は日本人だったということが露見してしまい、チベット脱出を計り、6月14日に関門を通過してチベット脱出に成功します。

その後、色々な経緯がありますが、後の2度目のチベット入国後の1915年(大正4年)にダライ・ラマおよびパンチェン・ラマからチベット語一切蔵経を受け取る事になります。
1916年(大正5年)4月から東洋大学仏教講座でチベット語を教授します。
日本におけるチベットとの交流における極めて重要な人物であると言えます。
(参考文献: 河口正著「河口慧海」、春秋社、1961年)

さて、ここで、このブログではまたもや余談のほうに進みます..
河口慧海はなんと言っても仏教の宗教家で、それもかなり純粋な仏教探求者であったわけです。ところが、次のような資料によってみますと、彼は儒教関係の文献を(おそらく新婚)家庭の夫妻に献辞をつけて贈っているんですね。


(なお、写真を撮った現物は私の手許にあります。)

これを見れば、河口慧海という人間はかなり奥の深い人物であったことがわかります。


タグ:チベット
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