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ビーグル号の大西洋から太平洋への移動(ダーウィンの日記から;1834年5月12日から6月10日) [海と船]

ビーグル号の大西洋から太平洋への移動(ダーウィンの日記1834年5月12日から6月10日[11日])

ビーグル号は1831年から1836年までの航海で、基本的には測量に従事しつつ1834年5月までの主な時日を南米大西洋岸、および短期間ですが南米南端部の多数の島のあるティエラ・デル・フエゴで測量とその他の用事のために過ごしました。フォークランド諸島にも2回立ち寄っています。
ビーグル号が大西洋側での当面の測量を終え、大西洋側から太平洋に入る移動の時期は1834年5月12日から6月11日にかけてでした。経路は、マゼラン海峡東側の入り口から入り、途中でマゼラン海峡を南に離れて、その分枝ともいうべきまだ当時ほとんど船によっては通られてなかった水道を特に選んで、マゼラン海峡の西の出口よりずっと南側で太平洋に出るというものでした。
この間のダーウィンの日記には、例えば、ビーグル号側が、多くの場合は友好的に接してきた先住民と、ある理由で対峙した時にどのような処し方をしたのかということを示す記述があります。またそれを書くにあたって、ダーウィンが主観による偏見に陥ることの少ない観点でものを見ていることが分かる等興味深い点が多々あります。

[ダーウィンの日記]から..
(1834年5月)12日
[パタゴニア南部のサンタ・クルス河の河口から]外洋に出た。フォークランド諸島とマゼラン海峡の間にあると言われてきた岩礁(エグラ;Aigle)を探査するために舵を切ったが、そういうものは見つからず、16日に聖処女岬[注]の沖に投錨した。
[注]伝説の聖女ウルスラと彼女に従った処女たち(殉教者)に因んで名付けられた岬で、マゼラン海峡の東の入り口北岸にあります。マゼランが1520年に、この岬を回ってこの海峡に入った日が当時聖ウルスラの祝日だった10月21日なのでこの名前を付けたと、マゼランに同行したピガフェッタは書いています。結果としてこの海峡は彼が長いこと苦労して探し求めていた太平洋へ導く水路であったというわけです。

[地図]聖処女岬[緑色の矢印の方; 以下、全ての地図は縮尺・中心を変えて見ることができます。]..

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(このページの緯度・経度の数値はフィッツロイ艦長が記したものです。)

(1834年5月)16日
天候は悪く、寒くて荒れ模様だ(それにともない私は船酔いでみじめだ)。パタゴニアの海岸では常に乾燥した天候で空が晴れているのに、南に120海里[222.4km]の所では常に雲や雨、霰(あられ)、雪そして風があるということは、私の眼には驚くべきことだ。

(1832年5月)21日
これらの日々私たちは海峡[注]の入り口の周りをあちらこちら航行して、水深を測ったりいくつかの堆を調べていた(ひとつ危険なものが見つかった)。夜には投錨した。
[注]マゼラン海峡。

22日
日が差す前にアドヴェンチャー号[注]がフォークランドから航行してきたのが見えた。[東フォークランド諸島の]バークレー湾を私たちが離れた後に1隻の軍艦が入ってきてすべての囚人[*注]を乗せて行ったので今やその島はとても静かだとのことだ。私たちは[アドヴェンチャー号経由で]手紙を受け取った。私のは10月と11月の日付が入っていた。
[注]フィッツロイ艦長が前年3月にフォークランド諸島にて私費を投じて測量の補助のために購入した船。これまでのところはビーグル号とは大体は別行動で、主にフォークランド諸島の測量をしてきた。
[*注]ビーグル号がこの年1834年の早い時期にフォークランド諸島のバークレー湾に入港する前、そこでは社会状況に混乱があり、島外に連れて行かねばならない囚人が何人かいました。一時的にビーグル号に収容したこともあるので、ここで特に記しているのだと思われます。

私たちはあと2、3日もしたら、ポート・ファミン[注]へ向けての航行に最善を尽くすだろう。この日数は測量にとってはとても短いが、天候が、ありがたいことに[gracias a dios]この南の緯度にしてはとても良いのだ。こんな緯度で日の長さが最短である日[注:南半球の冬至]までわずか1ヶ月なのに温度が夏にくらべてほとんど感じ取れないくらいに寒い程度であるというのは、興味深い。私たちはみんな昨年来た時[南半球の夏]と同じ服装をしている。
[注]マゼラン海峡のなかほどにある地点。今のプンタ・アレナスよりもっと南にある。

(1832年5月)29日
私たちはグレゴリー湾に投錨して6日分の給水をした。我らが馴染みの友人であるインディアンたち[注]はいなかった。ここのところ天候はとても悪く、今はとても寒い。温度計は一日中氷点下を示していて、多くの雪が降った。これは船ではつらいことである。ここでは燃え盛る火はなく、雪の解けかかっている上甲板がいわば家の大広間なのである。
[注]マゼラン海峡より北のパタゴニアにいる先住民の一隊で、ここを通りかかる船と交易(物々交換)を時々していたようです。ダーウィンは海峡南方に住む先住民を"フエゴ人"と呼び、彼等と区別しています。ダーウィンが"フエゴ人"と呼ぶ人達はヤマナ族という名前でも知られます。

[天候]1834年5月29日正午の天候:
北の風、風力5、全天曇り、暗い、霧、気温摂氏0度、水温摂氏4.4度。

[地図]グレゴリー湾の岬..

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(1834年)6月1日
ポート・ファミンに着いた。これよりも元気のない景観というのを見たことがない。薄暗い林が雪でまだらになって、3分の2が雨、3分の1が霧からなっている大気を通してぼんやりと見えるだけだ。それ以外は、アイルランド人だってそのように言うだろうが、とても寒くて不快な空気だ。

昨日、ネグロ岬[注]の南へ進んでいる時、ふたりの男がこちらに呼びかけてきて船のあとを追ってきた。ボートが下ろされて彼等を収容した。彼等はアザラシ猟船から逃げ出した船乗りでパタゴニア人に混じっていた者たちであることが分かった。彼等はそのインディアンたちからはいつもの分け隔てない度量の広い親切を受けていたのであった。彼等は偶然にはぐれてしまい、海岸をなんらかの船を探しにこの場所まで歩いてきていたのであった。 多分彼等は役立たずのならずものだったのだろうが、私はこれよりみじめな者たちを見たことがなかった。彼等は何日もイガイ[日記では"Muscles"となってますが"mussel-shells"のことを意図していると思われます]等および海でとれる卵類[berrys[sic];冬だけれどあるいは草木の実という意味で書いているか]を食べて過ごし、日夜ここの所続いている雨や雪にずっとさらされていたのだ。人は耐えようとすれば何に耐えないということがあるだろうか!
[注]ネグロ岬の位置は、フィッツロイ艦長によれば、南緯52度56分40秒西経70度49分付近。なお"ネグロ(negro)"の語はスペイン語で単に"黒い"の意味の形容詞。


[天候]1834年6月1日正午の天候:
東北東の風、風力4、全天曇り、雲、雨、気温摂氏4.2度、水温摂氏5.6度。

[地図]ポート・ファミン 緑色の矢印..

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(1834年)6月2日から8日まで
アドヴェンチャー号が私たちに再合流した。この海峡[マゼラン海峡]のこの部分の東側を調査してきたのである。
この期間の多くの間はとても霧が深く寒かったのだが、観測が出来る晴れた日が2日あったのはとても幸運であった。このうちの1日、サルミエント山[注]の眺望がとても堂々としていた。ティエラ・デル・フエゴの情景において、見かけ上はあまり高いようでない山々が実際はとても高いということに私は驚いている。これは海がその基部にあるので山全体が見えるという理由によるのだと私は思う。その理由はほとんど誰も疑わないであろう。ビーグル水道を辿りつつあるひとつの山を見てきたあとで、ポンソンビー瀬戸でそれを、次々重なり合う多くの稜線越しに見た時のことを私は思い出す。このことによりその距離を知ったのだが、その距離においていかにそそり立って見えていたかということは興味深いことであった
[注]高さ2000mほどのこの山については後の日付での関連記事がありますので、そこのところで地図を示します。

フエゴ人たちが2回来て私たちを悩ませた。岸に多くの装置、衣服等がありまた人員もいたので、艦長は彼等を驚かせて立ち去らせることが必要だと考えた。一度、彼等が遠くに離れている時に大砲をうち鳴らした。望遠鏡を通して彼等の大胆な抵抗を見るのは面白かった。というのは水柱が立つと彼等は石を拾ってお返しに1海里半程離れたところにいる船に向かって投げるのであった。 これでは十分でないということで、1艘のボートが、マスケット銃弾を彼等に当たらないように撃てという命令のもとに出された。フエゴ人たちは木々の背後に隠れたが、マスケット[銃]が撃たれるたびに彼等は矢を放った。それらはボートに届かずに落ちた。士官が彼等を指差して大笑いするとフエゴ人たちは怒りでひどく興奮した(いわれのない攻撃にたいしては当然かもしれないが)。彼等は自分たちのマントを激情を込めて振った。ついには弾丸が木に当たってそれを傷つけるのを見て彼等は逃げ去った。ボートが彼等のカヌーや女たちを追うかのように装うと、彼等の逃亡は最終的に成し遂げられた。
湾に入った他の集団はその北にある小さな入江に簡単に追い払われた。翌日2艘のボートが彼等をさらに遠くに追い払うために送られた。4、5人の男が、その3倍の人数に対して自分たちを守るために前面に出てくるその決意のほどを見たが、賞賛すべきものであった。
[余白に]のろし、騒音、全くの静寂
彼等はボートを見ると、100ヤードこちらに向かって前進し、朽ちた木々でバリケードを準備し、慌ただしくその石投げ器のための石を拾った。マスケットが彼等に向けられるたびに、彼等は弓を向けてきた。彼等はひとりけが人が出たぐらいでは動きそうになかった。こんなわけだからこちらは退却した。

私たちは薪と水を一杯に補給した。ここの水は優れものである。ここのところ私たちが飲んでいた水はかなり塩を含んでいて、塩気がある[brackish]などというなまやさしいものではなかったのであった。些細な不愉快事のうちで水が塩を含んでいることほど悪い事はないのである。一杯の水を飲む時、薬のようで、そしてそれは渇きを癒さないのである。単に不純物が入っているとか、臭い水というのは、ほとんど問題ない。特に沸かしてお茶にすればそれは概してほとんど知覚されないものである。

(1834年)6月8日[注]
[注]フィッツロイ艦長の記録の内容によれば、ここはダーウィンの書いた日付が1日ずれていて9日のことであると思われます。

朝かなり早く抜錨した。艦長はマゼラン海峡をマグダレン水道を通って離れることを企図した。この水道はごく最近見つかったもので船によってはほとんど通られていない。風は順風だが、大気はとても重いので私たちはとても興味深い情景の多くを見る事が出来なかった。暗い不揃いな雲が山の上、その基部近くまで動いていた。そのぼんやりとした集まりを通してかいま見たものはとても面白いものだった。鋸歯状の先端、雪を冠った錐体、青い氷河、青ざめた空に対して印づけられた強い輪郭、といったものが様々の距離や高さのところに見えた。そのような情景のまっただ中、私たちはターン岬に投錨した。サルミエント山の近くであるがその時はそれは雲の中に隠れていた。
私たちのいる小さな入江の脇の高く、ほとんど垂直なところの基部にひとつの打ち捨てられた小屋掛け[wigwam]があり、ただそれだけが人がこの辺鄙な地域を時にはさまようのだという事を思い出させた。人がこれよりわずかの[存在の]主張やこれよりも小さな影響力を持つような情景というものを想像で描く事はほとんど出来ないことであろう。自然の無生物的作用[the inanimate works of nature]だけがここでは圧倒的な力で支配するのである。

[地図]ターン岬(ビーグル号はマゼラン海峡を離れて南下し、マグダレン水道を通り、9日の夜にこの岬の南で錨泊する)..

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[画像]サルミエント山(by C.Martens;同行した画家)..
1839_voyage_F10.2_fig20.jpg
(下の地図参照)

[地図] サルミエント山(2246 m)の位置(ターン岬の東南東方向の対岸)..

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(1834年)6月9日[注]
[注]ダーウィンの日付が1日ずれていて10日が正しいと思われます。

朝、霧のヴェールが次第に上がってサルミエント山が見えたので私たちは喜んだ。これら途方もない、静かな、ゆえに崇高な、世界がこのままである限りは決して融けることがないように運命づけられているかのような雪の山塊を見ることの楽しさを、私は叙述する事が出来ない。
雪原は頂上から基部に向かって高さ全体の8分の1以内の所まで延びており、基部は薄暗い森であった。雪の輪郭はとても素晴らしくくっきりしていて明確であった。あるいは実のことを言えば、陰が存在しないということにより輪郭はないのだが、それらが空に対しては知覚されるのでありそのように強く顕著となるのであった。いくつもの氷河が雪の堆積から曲がりくねって海へ下りていた。巨大な凍ったナイアガラに比されよう、そして多分これらの氷の大滝は氷の融けた動く水とまったく同様に美しいであろう。

夜までには[コックバーン]水道の西寄りの部分に着いた。投錨地を探したが見つからなかった。ここの島々は険しい海山のほんの頂上部分なのである。そのため私たちは、14時間の長く漆黒の夜を、岸から遠ざかったり近寄ったりしながら過ごさねばならなかった。それも狭い水道の中においてである。 一度私たちは岩礁にかなり近づいたのであった。この夜は艦長や士官たちにとって本当に心配なものであった。

[注釈] この時期は南半球では冬期であり、大陽の出ている時間はだいぶ短くなっています。参考までに、ビーグル号のこの位置での1834年6月10日の日の出、日の入り等は次のとおりです:
薄明開始07:37
日の出08:21
大陽子午線通過12:03(高度角北13度)
日の入り15:45
薄明終了16:29。
つまり日の出から日の入りまでの時間が7時間と24分で、さらに翌11日の薄明開始が7:31なので、この10日夜から11日の朝にかけての、薄明終了から薄明開始までの間の夜の暗い時間帯は15時間と2分に及んだことになります。さらに、この夜は月齢3.5ほどでしたので、夜半から明け方にかけてはまったく月明かりはなかったわけです。


(1834年)6月10日[注]
[注]正しい日付は11日であると思われます。

朝、アドヴェンチャー号と一緒に、私たちは大洋へ最良の経路を通って入った。西側の岸は概して低く、丸く、まったく不毛な花崗岩の丘から成り立っている。J.ナーバラフ卿がその一部を南デソレーションと呼んだのは、"見るからにそんなにも不毛な土地だからである"とは、もっともなことを言ったと思う。主な島々の外側には無数の岩礁があり、広い太平洋の長い波長のうねりがその上に絶え間なく砕け波を起こして怒っているようである。
私たちは"東フューリーズ"および"西フューリーズ"の間を通過した。少し北に行って艦長は砕け波の多さゆえにこの海域を"ミルキー・ウェイ"と呼んだ。このような海岸の光景を見れば、海に不慣れな者はゆうに1週間もの間、死や、危険や、難破の夢を見ることになる。

[地図]スカイリング山(コックバーン水道を通ったビーグル号は11日にこの山の南側を通り抜けて太平洋に出る)..

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[注釈] 東フュリーズはフィッツロイ艦長の記録では 南緯54度38分, 西経72度12分の位置にあります。スカイリング山の南を通り抜けてコックバーン水道の出口から行って、わずかに南に位置します。

[地図]11日日没時のビーグル号の概略位置(タワー・ロックス付近) 縮尺が小さめに設定してありますので適宜手動で大きくしてみてください..

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[天候]1834年6月11日正午の天候:
北の風、風力5、全天曇り、暗い、霧、驟雨、気温摂氏6.7度、水温摂氏8.1度。


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コメント 2

JAKiE

MAPを使い切ってますね、素晴らしい。
もっと情報を追加できるAddOnを期待しているのですが..
by JAKiE (2008-07-12 11:19) 

春分

危険なミルキー・ウェイですね。
by 春分 (2008-07-12 11:42) 

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