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マゼランとダーウィンの接点(?) [海と船]

マゼランとダーウィンの接点(?)

フェルディナンド・マゼランはポルトガルの人でしたがスペイン王との契約のもとに1519年に5隻の船でスペインの港を出発し、まだ記録においては誰も成し遂げたことのなかった世界一周に乗り出し、大西洋を横断し、試行錯誤の後、今の"マゼラン海峡"を通って太平洋に出ました。マゼラン自身は途中亡くなりますが船隊のうちの1隻ビクトリア号が1522年にスペインに帰り着き世界一周を完成させました。

マゼランが大西洋から太平洋に越えるにあたって、通過可能な水路があるかどうかが一般には知られておらず、またそのような水路があるということが仮にマゼランにはなんらかの資料によって分かっていたとしても、その位置は知られていませんでした。そのため、マゼランは太平洋への入り口と思われたラプラタ河の探索に時間と労力を費やしましたが言うまでもなく無駄でした。

その後さらにマゼランは南米大陸沿いに南下を続け、1520年の3月末にサン・フリアン湾に入ります。ここは実は後に"マゼラン海峡"と呼ばれるようになる海峡の入り口にすぐ近い場所でした(200海里弱の距離)。マゼランはその年の(南半球における)冬をこのサン・フリアン湾というあまり良質の水のないところで8月の24日まで5ヶ月間を無駄に過ごします。ここに到着してすぐには大規模な反乱が起き、マゼランはかなり過酷な対処をすることになりますが、反乱そのものは短期間で収束します。

[地図]サン・フリアンの湾..

縮尺は適宜変えて下さい

それから約300年の後、チャールズ・ダーウィンは若い時に測量船ビーグル号に乗る無給の博物学者(naturalist;自然史学者;船では定員外)として英国海軍に採用されて、1831年から1836年にかけて主に南半球を通って世界を一周しました。特に南米大陸およびその周辺に長いこと留まっていました。ビーグル号の航海は測量が目的でしたので同じ場所を何度も行き来することは珍しくありませんでした。そういうことで南米大陸沿いの巡航(cruising)にかなりの長時間をかけているわけです。

さて、1834年1月9日から19日まで、ビーグル号はマゼランが5ヶ月を過ごしたサン・フリアンの湾に停泊します。その間スペイン人の古地図を手がかりに水を探しに出かけた一隊が水を得られず、フィッツロイ艦長までもがその探査行の途中で一時脱水症で倒れるという事態に立ち至ったということがありました[注]
[注]ダーウィンもその隊の中にいて元気に活躍し、その日は特に彼は体調に問題はなかったのですが、翌日から2日間熱を出して起き上がれなかったと書いてます。水の豊富な日本では脱水症というのは不注意が原因だったりするものですが、パタゴニアのような乾燥して荒涼とした土地ではなかば不可抗力のような場合もあるのでしょう。

さて、ダーウィンはここで博物学観察に出かけており、日記の中に次のような記述をしています..

[ダーウィンの日記1834年1月14日の記事から]..
私の説明出来ないものがふたつ見つかった。低地にレンガで出来た大きなスペインのかまがある。丘の上に小さな木で出来た十字架があった。 これらがどのような昔の航海者たちの遺物なのかよくわからない。 マゼランはここに来た。そして何人かの反逆者を処刑した。またドレイクも同様のことをしてここの島を"true justice (真の正義)"と呼んだ。

マゼランとともに出発しつつ、最後まで生き延びて世界を初めて一周し、そのことについての記述をなしたピガフェッタによれば、マゼランはこのサン・フリアンの湾において近くの高い丘に"大きな"十字架を立てて[注]、この地がスペイン王に帰属することを示したとあります。ダーウィンは"小さな"木の十字架を見つけているわけですが、大きいか小さいかは主観の問題であり、ピガフェッタはたとえば身長182~3cm程度のパタゴニア人を"巨人"と呼ぶなどのやや誇張気味の事を書くことがあるのに対し(当時としてはそう書きたくなる気分は分かるのですが)、ダーウィンは博物学者として誇張はしないということを考慮し、さらに木造建築というものも長持ちするものであるという私たちの経験から言って、ダーウィンの見たのはマゼランの立てた十字架であったということは十分ありえることかと思います。つまり1520年に立てられた木の十字架を1834年に見ることが出来ると考えるのは無理ではないということです。
[注]岩波書店の「大航海時代叢書」に収録されているピガフェッタの記録の邦訳には"大きな"の語はありません。私がここで参照しているテキストは1874年出版の英訳版です。
ダーウィン自身はそれがマゼランの立てた十字架であるかどうかについては推測を控えていますが[注]、私の場合はこれはあるいはマゼランとダーウィンの目に見える形での物的接点だったのでないかと想像してみたりします。
[注]ダーウィンがピガフェッタの叙述(原文はフランス語およびイタリア語で書かれていて当時おそらく英訳はまだ出ていない)を読んでいなければマゼランの立てた十字架のことに考えが及ばなくても不思議ではありません。

[画像]サン・フリアン湾に入るビーグル号..
1839_voyage_F10.2_fig10.jpg
ビーグル号に乗船していた画家C.Martensの素描に基づく版画

[トリヴィア(些事)] 「世界を一周する」はスペイン語では"dar la vuelta al mundo" (直訳すれば 「世界にその一回りを与える」)。
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SAKANAKANE

そう考えると、ロマンが有りますね。
by SAKANAKANE (2008-06-30 20:57) 

さとふみ

それにしてもその300年の間に新大陸・旧大陸ともに激変したわけで、またビーグル号の時は産業革命後で、蒸気船への移行も行われて行く時代ですね。
by さとふみ (2008-07-01 06:41) 

春分

十字架はいつも象徴的ですね。
マゼランはドレイクと並べて書かれるわけですね。
ダーウィンのドレイクに対する心持は、好意的ではないと言うことでいいのでしょうね。
by 春分 (2008-07-05 20:53) 

さとふみ

ダーウィンのドレイクに対するここでの言及は称号または肩書き抜きですが、特に好意的でないとまで言って良いかどうかは私には判断出来ません。
by さとふみ (2008-07-05 20:59) 

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